月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

ねじれの位置と思考の立体感

*********** 目 次 ***********
【ねじれの位置とは ――中1数学のおさらい 】
【例えば核兵器廃絶論と核抑止力必要論とのすれちがい】
佐伯啓思『経済成長主義への訣別』を読んで】
村上春樹作品で描かれる異界】
【ねじれは悪いことか】
【ねじれをもちこたえよ】
【参考】


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【ねじれの位置とは― ―中1数学のおさらい 】
 「ねじれの位置」とは、三次元空間において同一平面上にない二直線の関係を表す語である。

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 図で直線ABと直線CBは同一平面ABCD上にあり、交わる。直線ABと直線DCは同一平面ABCD上にあり、平行である。あるいは直線ABと直線HGは同一平面ABGH上にあり、平行である。
(注)「線分AB」ではなく「直線AB」といえば、両端をもたず限りなく伸びる線であることを含意する。
 このように同一平面上に存する二直線は、交わるか平行かのいずれかである。
 それに対し、例えば直線ABと直線FGは同一平面上になく、交わらず平行でもない。この二直線の関係を「ねじれの位置」という。中学1年生が数学の空間図形の章で学ぶ語である。昔も今も同じ学習事項である。

 人々の考えや主張に合意が見出せない場合、異なる意見が同一平面上でぶつかって(交わって)火花を散らすこともあれば、同一平面上で平行のまま収束しないこともある。
 例えば、財政再建を重視し増税と政府支出の緊縮を推進しようとする人々と、経済成長を重視し金融緩和と必要に応じた積極財政を主張する人々の意見は平行のままで収束はしないが、少なくとも近未来に向けて採るべき経済政策はいかにあるべきかという問題意識で同一平面上には立っているのである。
 他方、一見同一テーマについて考えているようでありながら、基本的な問題意識で同一平面に立ってないために他者と思考がすれちがっている場合がある。
 例えば、核廃絶を訴える人々と核抑止力の必要性を説く人々との意見のすれちがいは、二者の考えの関係がねじれの位置にあるがためであろう。図の直線ABと直線FGのように。

 

【例えば核兵器廃絶論と核兵器抑止力必要論とのすれちがい】
 かつて広島、長崎の無辜の人々が受けた原爆被害の惨状は筆舌に尽くしがたいものがある。「原爆は即死が一番いい」(林京子祭りの場』・1975年)というこの世の地獄、大やけどを負って苦悶する老若男女、「肉のつららを全身にたれさげて」立っている被爆者の姿(同書)、「いたかばい。ああいたかばい」と呟く中学生(同書)、どろどろに溶ける赤ん坊・・・  核廃絶を訴える人々は、人類はこのような惨禍を二度と繰り返してはならぬと言う。至極もっともな強い思いである。
 核兵器保有国は増加の傾向にあり、またその破壊力の規模の大きさは72年前の比ではない。だからこそ核兵器廃絶を訴える人々の願いは切実なものである。私もその願い自体に何の異論もない。それどころか尊いとも思う。
 他方現実の国際政治のありようを重視する人々は、核兵器の抑止力によって平和が維持されてきたと主張する。第二次世界大戦後、大国間での戦争がなかったのは核兵器の抑止力がもたらした結果だと。
 核抑止には二つの顔がある。ひとつは自国に対する核攻撃を抑止する基本抑止で、加えて同盟国(あるいは第三国)への核攻撃を抑止する拡大抑止(いわゆる「核の傘」)という二つの顔である。この拡大抑止の有効性については古くから疑問が投げかけられてきたが、特に冷戦終結後の現代では信頼性がかなり揺らいでいる。にもかかわらず、日本が冷戦下で安全を保障されてきたのは、アメリカの核の傘に負うところが大きく、たとえ幻の傘であったとしても幻なりに仮想敵国へそれなりの抑止効果を持っていたのである。冷戦終結後もその効果の残響はなお生きており、それがなければ日本はとうに中国から侵略を受けていただろう。
 残響がいつまでも続くわけはない。日本はいずれ有効な自衛策をとらねばならない。しかもそれは喫緊の課題であるといっても過言ではない。だが一部の論者が言うような対米自立、重武装中立論は眼前の危機に対処する策としては飛躍であり、その心意気は善しとするも、喫緊の対応策としては空理空論にしかならない。今必要な第一歩は非核三原則の見直しであり、アメリカの核持ち込みを公に認めることである。その次の段階として、可否は別としても核シェアリングの議論があろう。それをアメリカ従属と非難する意見もあろうが、重武装中立政策が目前の近未来に採れるわけもなかろう。対米自立、重武装中立論は思想の問題としては有効だが、喫緊の政策問題としては論ずるに値しない。
 だが非核三原則の見直しについては世論の猛反発が予想される。マスコミが煽動し、冷静な議論がないまま、それを提起した内閣はすっ飛ぶかもしれない。
 核兵器廃絶を訴える人々は、核抑止の有効性について疑問を投げかける。アメリカのシュルツ元国務長官は「核兵器はもはや使えない兵器だ。使えなければ抑止力にはならない」と言う。シュルツ、キッシンジャーらアメリカの外交と国防の要職にあった4人の元高官は2008年にウォール・ストリート・ジャーナル紙に共同で文章を発表した。彼らは核拡散の危険性と核抑止力の無効性を指摘し、「核兵器のない世界」の実現を訴えた。日本で反核運動を展開している人々もこの呼びかけを歓迎し、運動のプロパガンダに利用した。
 たしかに、核抑止論は大国間で成立しても、拡大抑止論の有効性はあやしい。あるいはテロリスト集団が小型核兵器を入手し使用する能力を高めれば、近未来において核攻撃を実行する悪夢が現実のものとなるかもしれない。破滅の淵に追い込まれた国家の独裁者が、死なばもろともと核ミサイルを発射するかもしれない。
 これらの悪夢のような可能性に対して核抑止論は無効である。のみならず核廃絶論もまたこの悪夢には無効である。仮に全世界のほとんどが核兵器を廃棄しようとしたとする。その瞬間、ある国もしくは集団がひとり核兵器保有すれば、彼らが全世界を支配することになるだろう。
 政治とは相対性の問題である。諸問題を相対的に扱う技術である。危険性や綻びがあることを承知のうえで、その危険回避の方策を諸国家の協力で追及しつつ、あえて核抑止の力で自国の安全を求めていくしかないと考えるのが政治の立場だ。
 核廃絶を訴える人々は、上に延べたように核抑止力の無効性を主張し、被爆がどれほどに理不尽で残虐なものかを訴える。そして平和とは人類の愛と信義によってもたらされるものだとうたう。それは問題の相対性を踏まえた認識ではなく、絶対的な主張である。
 私の立場はといえば、政治の問題には政治の論理で取り組むべきだと考える者であるが、異なる主張のいずれかに軍配を上げることがこの項の目的ではない。核兵器廃絶を訴える人々と、核兵器による抑止力の必要性を主張する人々の意見はけっして交わらない。平行ですらない。それらは共通の平面に立たず、直線ABと直線FGのようにねじれの位置にあることを確認しておきたい。この問題についてはまた後述する。

 

佐伯啓思著『経済成長主義への訣別』を読んで】
 佐伯啓思氏は東京大学で経済学専攻の大学院生であった頃から経済学への批判を強く抱き続けてきた学者である。滋賀大学経済学部教授を経て京都大学大学院人間・環境学研究科教授の職を勤め上げ、名誉教授の現在は同大学こころの未来研究センター特任教授として活躍中である。自称する肩書は社会思想家である。
 その佐伯氏の近著『経済成長主義への訣別』(2017年5月)は、氏のこれまでの経済学批判の集大成ともいえる書である。
 経済学者たちは、経済学は資源の効率的配分を目的とする客観科学だと自認する。だが佐伯氏は、「効率性の追求」はひとつの価値判断である、と言う。例えば効率性よりも公平性や自然環境の保全を重視するという判断もあり得よう。だが経済学では「効率性の追求」が科学の装いのもとでアプリオリに前提とされていて、その結果我々は「効率性の追求」という価値を疑問の余地なく強制されているのだ、という考え方が氏の経済学批判の肝である。
 効率性の追求とは、資源の稀少性のもとで生産や人々の物的満足の最大化を図ることである。物的満足の最大化を追い求めて、経済は成長してきた。経済成長とはGDP(国内総生産(注)が増加することである。
 (注)国の実体経済を表す指標として、以前はGNP(国民総生産)が用いられていたが、1980年代頃よりGDPに依ることが多くなった。なおGNPは現在ではGNI(国民総所得)に置き換えられている。

 資源の稀少性の条件のもとで、市場経済はホモ・エコノミカス(経済人)の合理的行動によって均衡に向かう。市場経済と資本主義の関係は佐伯氏によって次のように説明される。
 人々は欲望(効用)を満たすため市場で生産物を購入するが、限界効用(注)は逓減する。だがイノベーションによって新たな効用が次々に生み出されるので、欲望は飽和せず、限界効用の逓減は先送りされる。市場は均衡状態に向かうが、新たな効用の出現により均衡は崩れ、再び稀少性の原理に支配される。


(注)「限界」は経済学入門でおなじみの概念である。追加1単位に対する増分というほどの意味である。限界効用逓減の卑近な例をいえば、汗をかいたあとの1杯目のビールは旨いが、2杯、3杯と追加していくと、旨いと思う快感(効用)が次第に減るという現象が分かりやすいか。限界効用は逓減し、限界費用は逓増する。


 稀少性の条件のもとで市場経済は均衡に向かうが、イノベーションによってその均衡は崩れ、市場経済は新たな稀少性をもたらす。この繰返しによって経済は成長する。経済成長の過程で資本は投資によって利潤を得、資本が拡大する。これが市場経済と資本主義それぞれの概念の区別と連関である。
 佐伯氏の前掲書をレヴューしつつ、経済学入門のおさらいも加えておこう。
 投資は社会の貯蓄からくる。貯蓄は国民所得から消費にあてられなかった残余である。投資は総所得のうちの過剰な部分によってなされる経済行動であり、この過剰性がイノベーションを可能とする。経済循環に伴う過剰性によって上に延べた新たな稀少性がもたらされるのであり、経済は成長していくのである。
 ところが貯蓄という過剰性が充分に投資に向けられないとき、GDPの増加率は縮小する。近年先進国の多くの成長率が低下してきたのは周知のとおりである(注)。
(注)ただしアメリカの経済は好調である。リーマンショック後のFRBの金融緩和政策とアメリカに顕著なレヴァレッジ経済(借金の活用)がうまく噛み合ったこと、イノベーションの活発な進展等がその理由であろう。

 日本の場合は、リーマンショックで世界経済が後退した2008~09年にマイナス成長に転落し、2010年にV字回復をしたが、その後は微増の状態が続き、実質、名目ともに年次成長率は0~2%の間で推移している。2016年度の年次成長率は実質で1.3%、名目で1.1%である(内閣府発表)。
 第二次世界大戦後1950年代から70年代前半まで世界経済は大きく成長した。とりわけ戦後の日本経済の高度成長の勢いはめざましく、1956年から1973年までの日本の年次平均経済成長率は9.1%であった。そして二度のオイルショックを経て、高度成長から4%台の低成長率の時代へと移行していったのである。
 1970年代以降の先進諸国の成長率鈍化の現象は、大量生産と大量消費に牽引された工業化社会の進展が限界に近づいたためである。上に延べた「過剰性」が行き場を失い、投資意欲が減退した。
 佐伯氏は大学院生であった70年代に、この行き場を失った過剰性の処理を、市場の効率主義や競争主義にゆだねるのではなく、公正や公平を軸にした「善き社会」のための公共計画に向けられることを期待した。だがその期待は外れた。過剰性にあふれた資金は金融市場で猛威をふるい、あるいはまた新たなイノベーションに向けて利潤の道を追求している。その姿に佐伯氏は失望を隠さないのである。
 前掲書はこの後、成長主義を至上命題とする経済行動がもたらす様々な負の効果に考えを巡らす。その指摘自体はけっして目新しいものではない。1970年5月に始まる朝日新聞の連載記事『くたばれGNP ― 高度経済成長の内幕』は公害問題を軸にして成長主義に疑問を投げかけた。以後今日にいたるまで、経済成長主義に伴う弊害は折につけ論じられてきた。佐伯氏の論考はそれらの負の側面への認識をふまえて、経済成長主義に対する哲学的考察へと進む。
 佐伯氏は論ずる。経済成長主義が不気味なのは、それが目的を持たない無限の「過程」であり、人間を人間たらしめる条件である死生観、自然観、世界観、歴史観、宗教意識といった価値観とまったく交わろうとしないからである、と。これらの「人間の条件」に関る価値観と経済成長主義が永遠に交わらないのは二者が平行であるからではなく、同一平面上に立っていない、すなわち「ねじれの位置」の関係にあるからだろう。
 さらにこの書では「経済成長を哲学する」という章を設けて、経済成長によって得られるものと失われるものについての価値判断の問題等について語られる。「経済成長はなぜ望ましいのか」と疑問を投げかける佐伯氏の問題意識と、価値判断をおかずに経済成長を当然の前提とする経済学や経済政策は、それぞれ別々の平面上にあり、交差せず、平行ですらない位置関係にあることを指摘しておきたい。
 ではこのねじれの位置関係に佐伯氏はどのように対処しようとしているのか、それについてはまた後ほど考えてみたい。

 

村上春樹作品で描かれる異界】
 核兵器廃絶論と核抑止必要論、経済成長主義批判と経済成長政策、ここまで二つの例をあげて両論がねじれの位置にあることを指摘してきた。ねじれているのは、人間存在の根源に関る思考と現実思考の二者の位置関係である。
 このような例をあげていけば枚挙にいとまがない。
 例えば村上春樹氏の文学に目を向けてみよう。村上氏の小説作品には、現実の日常生活のすぐ隣に異界が存在していることが多い。両者はシームレスにつながっていて、異界ではしばしば時間の感覚が失われ、空間も超越する。
 そのような作品を生み出す村上氏自身は、自己の孤独な心を徹底的に探究してきた人であろう。小説、エッセイ等村上氏の膨大な作品を読んできて、氏の孤独な魂の遍歴に思いをめぐらさざるを得ない。
 もちろん現実の村上春樹氏の生活は、善き伴侶と友人、そして多くの読者と名声に囲まれていて、そういう意味では「孤独」と程遠い位置にある。作家になる前の職業生活でも、タフな実生活者であったことはエッセイで明らかである。
 にもかかわらず、村上春樹氏の文学の根底で息づいている心は、孤独な魂の内閉的な世界で織りなされる模様で彩られている。村上作品の登場人物は、「穴」や「井戸」のメタファーで表現されるように、孤に徹する。辿り着く先は「地底界」であったり、「世界の終り」であったりする。そして孤に徹しぬくことで「壁抜け」を果たす。この孤の徹底と壁抜けによって、作品の心は孤を止揚し他者の心につながる。このつながりは多くの読者の心にも届く。作品が読者の心に共鳴するのだ。
 異界では時間が失われる。『ねじまき鳥クロニクル』では、1990年代の世田谷の古井戸の底が1939年のノモンハンに通じているようでもある。『騎士団長殺し』の地底行の場面では、次第に時間の流れが失われていく感覚が描写されている。また空間も超越している。伊豆の病室の穴から地底の世界に入った「私」は、小田原の雑木林の穴の底へ脱出する。

 

 現実の世界はニュートン物理学の法則に従って動いているように私たちは実感している。それが私たちの現実感覚である。
 実在感を持った「物質」の世界の究極の粒子は原子である。原子は原子核と電子からできている。原子核は陽子と中性子で構成されている。原子核の周りを回っている電子はもはや単なる「物質」ではなく、「状態」の性質(波動性)を持つ存在である。「粒子」の性質はあるが「状態」の性質をも併せ持つ存在が量子と呼ばれている。電子は量子の代表選手である。電子はときに「粒子」であるかのような振舞を見せるかと思えば、また局面が異なれば「状態(波)」になってしまう。電子が原子核の周りを回っているといっても、太陽系の惑星のように規則正しい軌道を描くわけではない。空間を無視して別の軌道に移ったりする。さらに軌道自体が明確ではなく、軌跡が幅広く面になっていることもある。電子の「波動」としての性質からくる現象である。
 原子の内と外では世界観がまったく異なって見える。原子の内側では、私たちの日常生活での物理法則の感覚が通用しない。原子の内側の、法則ではなく、波動性を探求する学問が量子力学あるいは量子論である。
 ニュートンに代表される近代科学は、現象の因果関係に関心を向ける。原因と結果の間にある法則を究明しようとする。物理学にかぎらない。医学も社会科学も同様である。そして原因と結果の間には時間の流れがある。
 量子の世界には因果関係がない。原因(入力)と結果(出力)が一致する「固有状態」が量子の世界である。
 量子論では時間が存在しない。時間は流れるものではないと理解されている。時間とはビッグバンとエントロピーの極大化を両端に持つ概念である。その中で、時刻tに対してt+1やt-1の時刻がある。時刻が異なる世界が多数存在しているのであり、この複数ある世界から世界への移動を私たちは「時間の流れ」と実感しているのだ。
 「量子テレポーテーション」のような不思議な現象も確認されている。「量子テレポーテーション」とは、ペアの状態にある2つの量子が、何光年離れていようが、上向き・下向きのコンビネーションが完璧に同時になされるという現象のことである。旧来の時空概念を超越している。
 私たちは日常生活の実感で感じとれる経験だけでリアリズムの世界を考えがちであるが、その常識から大きく離れた量子の世界の光景もまたまぎれもなくリアリズムの実在世界なのである。それは世界の存在の根源に厳として実在している。原子の壁の向こうに実在し、私たちが実感する日常世界を支えている。なにも量子コンピュータの実用化成功を持ち出すまでもなく、このPCを動かしているエレクトロニクスもまた量子の働きによるものである。私たちの常識が通用しない量子の世界は、日常生活とシームレスにつながっている。

 

 村上春樹の小説作品を、ふざけたオカルトとして蔑む人がときどきいる。しかし諸作品で描かれている異界は、村上氏の心のリアリズムなのだ。「量子テレポーテーション」がリアルな現象であるのと同じようにである。原子の壁の内の量子の世界が私たちの日常生活の基底に実在するように、村上氏が描く時空を超越した異界が私たちの日常の心模様の深層に息づいているのだ。言語の壁を超えて世界の多くの読者の共感を呼ぶ所以はそこにある。オカルトの面白さで喜んでいるのではない。
 私たちの日常感覚と村上作品で描かれる異界での感覚は同一平面上にはない。同一平面上になくともつながりはあり、反響し合う。ねじれの位置にある二者は、どちらもひとつの立体図形の中にあるからだ。

 

【ねじれは悪いことか】
 著述のなかで「ねじれ」という言葉をよく使う論者がいる。例えば文芸評論家の加藤典洋氏がその一人だ。
 氏の評判作『敗戦後論』(1997年・雑誌初出は95年)にもこの語が何度も登場する。『敗戦後論』で加藤氏は、日本における先の戦争(第二次世界大戦)を義のない侵略戦争と捉える。戦後民主主義による日本人の価値観は、日本の自存自衛とアジア解放という義を信じた兵士の死とねじれの関係をもたらす、と加藤氏は語る。単なるねじれではなく、戦後の日本人にねじれの自覚がないぶん、二重の転倒となっている。だからまずねじれを指摘することから論議を始めねばならいのだと、加藤氏は嘆息する。そしていわゆる護憲派憲法観を例に挙げ、彼らにねじれの自覚がないことを指摘する。
 加藤氏は、「平和憲法」を称える文学者の声明(湾岸戦争時)を見て、この憲法は日本人の自発的な選択だったのだという彼らの無邪気な主張を批判する。加藤氏自身は「平和憲法」の理念を高く評価するのだが、それが戦勝国アメリカからの押しつけであったという史実を直視する。押しつけられた憲法が日本人の価値観からして否定されるべき代物だったとしたらねじれは軽症だが、加藤氏にとって、いや、加藤氏の考える戦後日本人にとって、「平和憲法」の理念は肯定すべき価値観に基づいているから、ねじれは深刻であると考えられているのだ。
 いまだに、現行憲法は押しつけではなかった、当時の日本人が自発的に草案を作り、正当な手続きを経て選択したのだという単純な主張をする護憲派の人々が少なくない。そこそこ人気がある中堅作家が、そんな主張を、近年にいたってもなお朝日新聞に寄稿していたりする。思考が薄っぺらなまま凍結している。
 加藤氏は占領軍に押しつけられた憲法だという事実を直視している点で、凡俗の護憲派論者とは一線を画している。凡俗の護憲派論者には、戦後の日本人が背負っている(加藤氏が言うところの)「ねじれの自覚」がないのだ。
 「ねじれの自覚」の欠落の指摘は、護憲派だけでなく改憲派にも向けられている。改憲派の多くは戦前日本の価値観をかならずしも否定しないから、やはり戦後の価値観とねじれていると加藤氏は言う。
 加藤氏はこの憲法のねじれに立脚したうえでの主張として、「平和憲法」の価値を積極的に認めるがゆえに、「強制されたものを、いま、自発的に、もう一度「選び直す」」(前掲書)という方法を提起するのである。
 私は加藤氏の歴史観にまったく同意しない。現行憲法には国家主権の剥奪という致命的な欠陥があると考えているから、加藤氏の言うような「この憲法を選び直す」という価値観はまったく持っていない。しかし加藤氏の歴史観憲法観を批判することが本稿の目的ではないので、それは措く。

 本稿で関心があるのは加藤氏の「ねじれ」観である。私が前項までに述べてきた「ねじれ」とは、人間存在の根源に関わる思考と現実思考の二者の位置関係を指して言った言葉だった。立体図形が当然に内包している位置関係であり、それが良いとか悪いと言っているのではない。それに対し加藤氏が使う「ねじれ」という言葉には、正しかるべき形状がねじれてしまったというニュアンスが含まれている。
 

f:id:y_tamarisk:20180103150341j:plain 加藤氏がイメージする「ねじれ」その(1)

 

 さらに加藤氏は、戦後日本人にはねじれの自覚がなく、そのため二重の転倒が生じていると述べる。「ねじりドーナツ」のようなものだろう。

 

 f:id:y_tamarisk:20180103150650j:plain 加藤氏がイメージする「ねじれ」その(2)

 

 私が立体図形の中の二者の位置関係について「ねじれ」を考えているのに対し、加藤氏は立体そのものが何らかの力学作用を受けて「ねじれ」たと言っているのだ。同じ言葉を使っていても、定義が異なっている。
 加藤氏の定義に従ってあらためて見ていくと、「ねじれ」に立ち向かう方法として上記の「選び直し」論が提起されているのであり、それはけっして「ねじれ」の矯正を意味しているわけではない。「ねじれ」をそのままに受け止めよと言っているのである。
 この『敗戦後論』の終盤で加藤氏は、1971年芸術院会員の推輓を受けたときそれを辞退した大岡昇平の態度に共感を寄せている。大岡は戦時中捕虜になったという「恥ずべき汚点」(大岡の言葉)を辞退の理由にあげた。『敗戦後論』は次の文章で論考を締め括っている。

 

 大岡は、戦後というサッカー場の最も身体の軸のしっかりしたゴールキーパーだった。
 一九四五年八月、負け点を引き受け、長い戦後を、敗者として生きた。
 きっと、「ねじれ」からの回復とは、「ねじれ」を最後までもちこたえる、ということである。
 そのことのほうが、回復それ自体より、経験としては大きい。

 

 加藤氏にばかり焦点をあてたが、「ねじれ」という言葉を著述の中でよく使う論者は他にもいる。ちょっと前まで「衆参ねじれ国会」という言葉も報道でよく使われていた。私もまた別の稿で「憲法と現実のねじれ」という言葉を使ったことがある。「ねじれ」という言葉は、たいていの場合、困った状態というニュアンスで用いられている。ねじりドーナツに猛省を促しているようでもある。
 加藤氏は「ねじれ」を直視し、それをもちこたえよと言っているのである。
 私もまた、「ねじれ」の定義は若干異なるものの、前項までに述べた二者の位置関係を困った状態だと考えているわけではない。今いる部屋を見渡すと、東西にのびる鴨居と南北に走る敷居はねじれの位置にある。別に彼らに猛省を促すつもりはない。三次元空間とはそういうものだから。

 

【ねじれをもちこたえよ】
 論壇等で見聞きする論考には左やら右やらその他あまたあるが、玉石混交であり、あまりにも単調な主張に出くわして辟易とすることもある。論者の思考の内に「ねじれ」がもたらす発酵が感じ取れないからである。

 核兵器廃絶を訴える人たちは、核抑止必要論に単に反対するだけではなく、その論をほとんど軽蔑しているといっても過言ではない。自分たちの主張は絶対的な善であるという確信を彼らは持っている。問題を相対的に考える政治の言葉は彼らに通じない。絶対的な善なのだ。人類滅亡の危険性を前にしているのに相対的な問題だとはいったい何を言ってるのか! と彼らは怒る。自分の主張とねじれの位置にある政治の言葉にも考えをめぐらしてみようという発想自体がない。
 では彼らの言葉に政治性はないのか。ある。彼らの「善」が党派性に絡めとられていることに自覚がないだけだ。党派性とは、彼らの反核感情を吸い上げて勢力拡大に利用しようとする○○党や△△党あるいは××国のことだけを言っているのではない。彼らの「絶対的善」自体がファシズムという党派性を帯びているのだ。
 1982年1月、中野孝次小田切秀雄、西田勝、小田実らが発起人となって『核戦争の危機を訴える文学者の声明』が発せられた。36年も前の声明であるが、ここに孕まれている反核運動の問題点は2017~18年の現在にそのままつながっている。現在の反核運動もまったく同じ危険性を持っているのだ。何ひとつ克服されていない。だからここで取り上げる。この声明の全文は本稿末尾の【参考】の項に掲げるが、核心部だけここに引用しておこう。

 

人類の生存のために、私たちはここに、すべての国家、人類、社会体制の違い、あらゆる思想信条の相違をこえて、核兵器の廃絶をめざし、この新たな軍拡競争をただちに中止せよ、と各国の指導者、責任者に求める。同時に、非核三原則の厳守を日本政府に要求する。「ヒロシマ」、「ナガサキ」を体験した私たちは、地球がふたたび新たな、しかも最後の核戦争の戦場となることを防ぐために全力をつくすことが人類への義務と考えるものです。

 

 この声明への賛同の『署名についてのお願い』という文章が中野孝次らによって雑誌(『文藝』1982年3月号)に発表された。その文章では、アメリカでレーガン政権が発足して以来軍備増強論が高まり核戦争の脅威が迫っていると警鐘を鳴らし、彼らの危機感を訴えている。
 この『声明』と『お願い』に吉本隆明は激しく怒った。『停滞論』(雑誌初出1982年、『マス・イメージ論』・84年に所収)や『「反核」異論』(84年)などの著述である。
 吉本の第一の指摘は、『お願い』がアメリカの核戦略のみを非難しているという党派性に向けられる。『声明』や『お願い』が発表されたのは、米ソ両大国のヨーロッパでの核兵器配備をめぐり緊張が高まった時期(いわゆる第2次冷戦)である。アメリカの核兵器配備に対し、西ドイツを発祥地とする反核平和運動のうねりが各地に広がってソ連を利した。ソ連はそれを隠れ蓑として、当時ポーランドで高まっていた民主化運動を弾圧した。『声明』はこの反核平和運動の流れに乗るものであり、「すべての国家、人類、社会体制の違い、あらゆる思想信条の相違をこえて」と一見普遍性をうたいながら、その実は反米運動なのである。吉本はこれを「ソフト・スターリン主義」と呼んで、その党派性を批判した。
 吉本の第二の指摘はより重要で、21世紀の今日もそのままにある問題なのだ。吉本は反核運動に対して、「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義を独占した言語にかくれて」現実の政治の論理から安易に目をそむけているだけの「倫理的な言語の仮面をかぶった退廃、かぎりない停滞以外の何ものでもない」と批判した。その結果吉本は、文壇や論壇で非難の集中砲火を浴び、孤立無援の状態に陥った。
 正義を独占した人たちは暴走する。『声明』発起人の一人である詩人・栗原貞子中上健次の小説作品「鴉」を槍玉にあげ、原爆被害者を侮辱するものだと断罪する。そしてその作品を掲載した雑誌「群像」に謝罪を要求するありさまだ。まるで紅衛兵の文学者吊し上げだ。中上健次はこのような妄動を「原爆ファシズム」と呼んだ。
 吉本は反核運動の倫理的退廃を指摘したことで、原爆賛成派のレッテルを貼られ、四方八方から石を投げつけられた。江藤淳など、『声明』に賛成の署名をしなかっただけで、やはり原爆賛成派と決めつけられた。吉本はこのような情況を「社会ファシズム」と呼んだ。
 この『声明』には500名を超える文学者が賛同の署名をし、一般からは2千万人の賛同署名が集まった。さらに翌年の反核集会では35万人が参加し、一斉に横たわって死んだ真似をするダイ・インというパフォーマンスが話題になったりした。
 賛同署名者2千万人である! 恐ろしいことだ。確信的に署名をした人がいる一方、何となく気軽に署名をした人も多いのだろう。戦争はいやだ、原爆などなくなればいいに決まっている、という程度の気軽な署名だ。吉本は「“核廃絶”に難しい理屈は必要ありません」という新聞の読者投稿を紹介している。
 吉本隆明は長年の言論活動で大衆論を大きなテーマとのひとつとして思索し続けた思想家である。吉本はこの2千万人に対して「さし当たってぼくは言うことはない」と評価を避けつつも、「どこかでこの2千万人を超える道を探したいっていう気がするんです」と大衆に対する複雑な思いを吐露している。
 私はこの2千万人に対しても批判的にならざるを得ない。2千万人の後ろに同種の人たちがその何倍もいるにちがいない。30数年前の妄動ではなく、今のことを言ってるのだ。この幾千万人の人たちが、その素朴な情緒で自覚なく政治の営為の手を縛り、今日の日本を亡国の淵に追いつめてきたのだ。
 2015年平和安全法制への反対世論がピークに達していた頃、その年の8月9日のNHKニュース7を思い出す。当時の拙ブログから引用しておこう。

 

 8月9日のNHKTV午後7時のニュース、長崎市の平和祈念式典のニュースを伝えたあと、画面は市内の繁華街で核廃絶の署名活動をしている人たちの映像に変わった。それを伝えるアナウンサーが「なかには署名せずに通り過ぎる人もいました」と言った。アナウンサーの表情や口調には「なさけない、残念なことだ」というニュアンスがありありで、無関心な人々が増えていることを嘆いているようであった。もし私がその場にいたなら、必ず署名を拒んだだろう。なぜなら「核廃絶」というポエムがもたらしている“空気”としての反核運動に反対だから。全員が署名すべきだと言わんばかりのNHKの報道姿勢は、反核全体主義に陥っている。(拙ブログ『平和安全法制をめぐる大衆世論の危うさ(1).2015年8月26日』より)

 

 『声明』発起人の煽動者から2千万人の追随者にいたるまで、自分たちの正義が属する同一平面でしかものが見えていないのである。ねじれの位置にある思考を含む立体像など想像だに及んでいないのだ。

 

 冒頭の立体見取図を再掲する。

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 直線FGの位置にある思考を直線ABと同一平面上にあるかのように直結する愚かさは、村上春樹氏の社会的発言にも顕著である。本稿第4項で述べたように、村上氏の根源的思考は時空を超越した心の深層に及ぶ。人類の暴力の歴史は集合的無意識層に潜む事象として認識される。そこでは時系列の因果関係は消えている。物理学の根源にある量子論に因果関係がないようにである。
 そして村上氏は、この時間軸を持たない歴史観という不思議な認識で現実の政治の諸問題を語るのである。だから日本国憲法の「平和主義」は単に人道的見地からのみ擁護される。19世紀後半から20世紀半ばに至る日本と東アジアの関係については、彼らがもういいと言うまで今後も日本が謝罪を続けなければいけない問題だと、毎日新聞共同通信を通じて繰返し主張している。歴史を縦の時間軸と世界の水平軸との関係で捉えて「今」を考えることができないからである。直線ABと直線FGを同一平面上で捉えられると思い違いをしているのである。愚かである。

 

 

 経済成長主義への批判を展開する佐伯啓思氏もまた、人類にとって「経済」とは何かという問題を根源的に投げかけている。佐伯氏の旧著『経済学の犯罪』(2012年)では文化人類学の知見を援用して、貨幣を人間の象徴作用の過剰性の産物として捉える。過剰性を処理するには「浪費」と「貯蓄→移転→成長」という二つの選択肢しかない。そして「富の破壊(浪費)」が否定された時代に経済成長の追求が始まった。これが佐伯氏の経済成長という現象への基本理解である。
 そして近代以降の理性主義と科学・技術の発展による変革を通じて、社会は外延的拡張の道をたどり、グローバリズムや情報ネットワークのめざましい発展をもたらした。さらに生命科学の研究の深化は、人間の生への意識をも外延的拡張の方向に導いている。
 経済成長を至上命題としてきた近代以降の社会では、外延的拡張の趨勢のもと、内向的凝縮のモーメントがおろそかにされてきた。内向的凝縮のモーメントとは、家族や親密的な共同体での生活を重視すること、死を前提とした生命観、理性主義や科学技術の偏重に対する宗教や哲学観の尊重等々のことである。
 佐伯氏は、経済成長主義のもとで見失われてきた人間の条件、すなわち「生命」「自然」「世界」「精神」の大切さを、ソクラテスの説くコスモスの秩序原理から考察する。あるいはまた、アリストテレスの説く「善き生」から内向的凝縮のモーメントを考察する。
 これらの思考は、太古の昔の貨幣の発生起源(前掲旧著)から、近代以降の市場経済と資本主義の進展を経て、今日のグローバルな金融資本主義にいたるまでの、経済成長の根源に横たわる問題を、巨視的に歴史を見る視点から捉えようとしたものである。
 そして佐伯氏の経済成長主義批判のもうひとつのモチーフは、経済成長はもう限界が近づいているという問題意識である。先進諸国は概ね低成長であり、日本は既に生産労働人口が減少する段階に入っている。AIやロボット等のイノベーション労働生産性を高めることはできるが、中長期的に見れば、このイノベーションは雇用の減少をもたらす。格差が拡大し、消費は伸び悩む。需要の減退が経済成長のブレーキとなる。このへんの考察は佐伯氏の最近の雑誌論文『AIに奪われる成長』(「Voice」2018年1月号)に詳しい。
 日本の目先の経済指標を見れば、企業業績は好調で、失業率は低下し有効求人倍率は上昇している。実質GDPは7四半期連続でプラス成長を維持している。しかし実質賃金は上がらない。需要に牽引される形での物価水準上昇も見られない。世界的に見ても目先の景気は堅調であるが、ここ四半世紀のスパンで見れば、イノベーションが進展したにもかかわらず、国民所得全体は微増にとどまっている。富が少数の勝者に集中し、格差が拡大している。
 佐伯氏の論点は二つである。経済成長主義への哲学的見地からの批判と、この四半世紀ほどの間に顕在化してきた経済成長の限界についての指摘である。『経済成長主義への訣別』ではこの二つの論点が織り合わされている。
 もちろんこの二つに関連性はあるのだが、とりあえず便宜的に二つにわけて考えてみよう。前者は人類にとって経済成長とは何だったのかという根源的な問いであり、後者は今日の経済政策上の問題である。
 前者について考えるならば、経済成長が良いとか悪いとかの判断を下す以前に、人類は悠久の歴史の中でその道を辿ってきてしまったのである。近代以降に限定しても、科学技術の進歩とともに市場経済は拡大を続け、資本主義が巨大化してきたのだ。吉本隆明が繰返し用いていた言葉を借りれば、歴史の無意識が資本主義を生み出したのである。21世紀前半の今、市場経済と資本主義は私たちにとって巨大な宿命である。この宿命を相対化してその意味を探ろうとする営みは知識人の大きな役割である。佐伯氏の長年にわたる経済への哲学的考察については、私も学ぶところ大で大変尊敬している。
 現代資本主義は、テクノロジーの発達にも促進され、グローバルな金融市場を膨張させた。経済は高度に抽象化され、少数の勝者が巨利を獲得する一方、その金融資本主義が社会の安定を脅かすマモンと化しつつある。
 佐伯氏あるいはその他の少数の論者は、経済成長はもう行き詰まるだろうと言う。資本主義の終焉を語る論者もいる。それは予測の問題である。過去から現在に至る歴史の分析がいかに的確であったとしても、予測を断定できる者はいない。佐伯氏も書いているではないか。「いずれ、これは将来予想にかかわることで、実際には誰も将来のことなどわかりはしない」と(前掲書371頁)。
 成長の鈍化あるいは行き詰まり、グローバリズムによるリージョナルな文化の破壊、社会の不安定化等々の問題にどのように対処するかは政策上の問題である。しかるに佐伯氏もまた、経済への根源的思考(直線FG)を現実の政策の問題(直線AB)に直結しようとはしていないか・・・ いやそんなことはないのか、微妙なところがある。
 佐伯氏は前掲書の末尾近くで、脱成長についての方法や政策についての具体的な提案はない、それは本書の関心外である、という趣旨の文章を書いている(375頁)。つまり直線FGからの問題提起であり、直線ABは同一平面上にはなくまた別問題だと言っているのである。
 前記の「人間の条件」や「内向的凝縮のモーメント」等の価値観を経済成長主義に対置する佐伯氏の論は、根源的思考から発せられる主張である。その主張が現実の政策と響き合うことへの期待は思考が立体的であることの証左だろう。ならば「ねじれをもちこたえている」のである。
 だがこの主張がさらに歩を進めて、いわゆる「定常型社会」(広井良典氏)への共感を述べるに至るくだりはどうだろう。定常型社会とは自然エネルギーを活用したローカルな地域コミュニティを軸とする経済社会の構想である。なるほど佐伯氏はその構想を提案しているわけではないが、共感を表明しているのである(前掲書363~364頁)。これは知識人が夢想するユートピアだ。
 そのようなユートピア思想で現実の経済政策を批判すればどういうことになるのか。経済成長が停止しあるいは経済が縮小していくと、失業者が増加し、社会はきわめて不安定な状態に陥るだろう。日本企業の生産力は質、量ともに低下し、外国資本にとっても海外市場にとっても日本企業はもう出がらしのようなものになってしまうだろう。そして何よりも、経済が縮小すれば日本の国防はもう絶望的な状態になってしまう。近年の中国の軍事力の飛躍的な強大化は経済成長とともにあったことを忘れてはならない。
 経済成長の困難性という問題が不可避な時代ではあるが、政策に関わる者は叡智を結集して、何とかこの困難な経済をマネージしていかねばならないのである。それは、1万年前に定住生活を始めた人類が背負っている業(ごう)、戦争の歴史のなかでついには核兵器を所持してしまったという人類の業(ごう)から、ポエムで逃れようとするのではなく、それをマネージする叡智に期待するしかないのと同じことである。

 

 人間にとっての経済という大問題に1970年代以来取り組んでこられた佐伯啓思氏の近著『経済成長主義への訣別』が、そのテーマでの集大成の書であるのなら、終章がいささか寂しかった。
 ねじれをもちこたえてほしかったのである。
(了)

 

【参考】
 www.recna.nagasaki-u.ac.jp

 

☆☆
1982年1月20日
            核戦争の危機を訴える文学者の声明
 地球上には現在、全生物をくりかえし何度も殺戮するに足る核兵器が蓄えられています。ひとたび核戦争が起これば、それはもはや一国、一地域、一大陸の破壊にとどまらず地球そのもの破滅を意味します。にもかかわらず、最近、中性子爆弾、新型ロケット、巡航ミサイルなどの開発によって、限定核戦争は可能であるという恐るべき考えが公然と発表され、実行されようとしています。
 私たちはかかる考えと動きに反対する。核兵器による限定戦争などはありえないのです。核兵器がひとたび使用されれば、それはただちにエスカレートして全面核戦争に発展し、全世界を破滅せしめるにいたることはあまりにも明らかです。
 人類の生存のために、私たちはここに、すべての国家、人類、社会体制の違い、あらゆる思想信条の相違をこえて、核兵器の廃絶をめざし、この新たな軍拡競争をただちに中止せよ、と各国の指導者、責任者に求める。同時に、非核三原則の厳守を日本政府に要求する。「ヒロシマ」、「ナガサキ」を体験した私たちは、地球がふたたび新たな、しかも最後の核戦争の戦場となることを防ぐために全力をつくすことが人類への義務と考えるものです。私たちはこの地球上のすべての人々にむかって、ただちに平和のために行動するよう訴えます。決して断念することなく、いっそう力をこめて。

「核戦争の危機を訴える文学者の声明」世話人一同
井伏鱒二井上清井上ひさし生島治郎巌谷大四尾崎一雄大江健三郎小野十三郎小田切秀雄小田実木下順二栗原貞子、古浦千穂子、小中陽太郎草野心平黒古一夫住井すゑ高橋健二高野庸一夏堀正元中里喜昭中野孝次中村武志、南坊義道、西田勝、埴谷雄高林京子藤枝静男堀田善衛本多秋五星野光徳真継伸彦三好徹安岡章太郎吉行淳之介伊藤成彦

 

 

☆☆☆ 村上春樹作品の各論については過去ブログの拙文を参照されたい。

 

y-tamarisk.hatenablog.com

 

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