月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

岩田温・考 ――「リベラルな保守」って何?

***** 目 次 *****

【若き政治哲学者】

【SNS等での発言】

【「リベラルな保守」って何?】

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【若き政治哲学者】

 政治哲学者・岩田温氏の名を初めて知ったのは2012年に産経新聞の新刊書広告を見たときだった。小さな出版社としては珍しく比較的大きなスペースを割いて、岩田氏の写真とその新著『政治とはなにか』を紹介していた。興味が惹かれて早速購入した。書き下ろしの序論以外は200711年に発表された評論文や講演録の寄せ集めで、若干の玉石混交という部分もあるものの、総じて期待にたがわず、読んで感銘を受けた書だった。

 読了後著者の言説に興味をもって、すぐに前著『逆説の政治哲学 正義が人を殺すとき』(2011年.書き下ろし)を読んだ。一層の感銘を受けた。そしてさらに氏の処女作『日本人の歴史哲学 ―なぜ彼らは立ち上がったのか―』(2005年.書き下ろし)を読みたくなった。あいにく絶版だったが、古本で入手することができた。立て続けに3冊読んだわけだ。

 以上の3冊はいずれも、1983年生れの岩田氏が20代のときに著した書である。この若さでよくもこれだけの学識を積み重ね、政治と人間というテーマで深い考察が展開できるものだと感心した。

ときに非合理的な行動をとる人間には、政治科学という学問ではつかみ取れない面がある。岩田氏はそのような人間と政治の関係について、歴史上の様々な政治現象に考えを巡らせ、また現下の政治風景や経済思想にも目を配り、政治とは何か、そして否応もなく政治の中で生きる人間とは何か、について縦横に論じている。

 『政治とはなにか』と『逆説の政治哲学』の2冊は、政治や政治思想に関心を持ち始めた初学者にとってはうってつけの入門書であると同時に、それらのテーマの本をある程度読んできた者があらためて考えなおすためにも有為である。特に『逆説の政治哲学』は平易な記述が豊富な学識に裏づけられているから、初学者にもそうでない者にも、どちらにとっても価値ある1冊である。

 優れた作家は、長期にわたる創作活動での核心的本質を処女作のなかで露わにしていることがしばしばある。分野は違うが、岩田氏の処女作『日本人の歴史哲学』にもそういうところがある。この著の執筆時点での氏の年齢は21歳である。日本の先人たちの精神の燃焼を歴史のなかから読み取り、現代日本を捉えなおそうという大きな問題意識を持った書である。巻頭で哲学者の長谷川三千子氏(当時埼玉大学教授)が3ページにわたる推薦の辞を寄せていて、岩田氏のこの大きな問題意識と各章におけるその展開を称賛している。長谷川氏のこの推薦の辞はけして仲間褒めや社交辞令の類いのものではなく、若き俊才への尊敬と愛情が滲み出ている良い文章である。

 何年前だったか、私はツイッターで『日本人の歴史哲学』について触れ、このような良書はぜひ復刻して多くの人に読んでもらいたいものだと呟いたことがあった。岩田氏から応答があり、謝辞を述べられたあとで、若い頃の未熟な書ですと述べられていた(具体的な言葉は忘れたので、大意である)。その後何年も研鑽を積まれた今の時点から振り返れば、自身の基準で未熟にも見えるのだろうが、にもかかわらず、読者の立場で言えば、岩田氏の思索の核心部になまに触れられる貴重な書なのである。核心部分とは、歴史の水脈に流れる日本の先人たちの精神を描き出し、そして現代日本人を考えようという氏の問題意識のことである。

 村上春樹氏もまた処女作『風の歌を聴け』を若書きの習作としてあまり触れたくないようすであり、海外での翻訳出版を許してこなかった(今どうなのかは知らない)。村上氏の大成して後の基準では未熟な習作なのだろうが、読者の目から見れば春樹文学の核心に関わる心が表現されている名作なのだ。

 岩田氏にとっての『日本人の歴史哲学』も同じことかもしれない。

 私はこれらの3冊を読んで、岩田氏の思索者としての質の高さと豊かさに尊敬の念を持った。

 

【SNS等での発言】

その後現在まで岩田氏が上梓した本は――私の記憶違いでなければ――5冊(共著1冊を含む)である。いずれも読んだが、あまり印象に残っていない。政治哲学に関する本はこの5冊のなかにはない。今後のことは知らない。

近年はネット上の言論サイトやブログ、フェイスブックツイッター上での岩田氏の発言を目にすることが多くなった。また保守系論壇誌での記事もときどき見かける(たまにしか購入しないが、広告でわかる)。私はこれらでの氏の発言にしばしば失望することがある。

ブログ(「岩田温の備忘録」)、言論サイト(「アゴラ」「BLOGOS」「iRONNA」等)での記事の多くは時事問題への発言である。なかに良い文章もあるが、大半は居酒屋談義レベルでの発言である。時事問題についてもおおいに発言すればいいが、それならそれでプロの論客としての掘り下げはないのか、と思うのである。「アゴラ」「BLOGOS」「iRONNA」から岩田氏執筆の記事を任意に3本選んで読んでみよ。3本とも良い記事だと感想を持てるのなら、あなたはかなりクジ運が強い人である。

それらをここでいちいち引用しないが、最近の「iRONNA」からひとつだけ拾ってみよう。『「秘書いじめ」豊田真由子議員だけが悪いのか』と題する岩田氏の論考である。秘書を激しく罵ったり暴力を振るったりする豊田議員も悪いが、秘書も議員を諫めればいいではないかという、それだけの結論である。孫子を例として持ち出している部分は本題と不釣り合いである。そのへんでたむろして世間話をしているおっさんおばはんのおしゃべりとどこが違うのか。いや、おっさんおばはんの世間話の方がもうちょっと面白いかもしれない。プロの論客たちが集う言論サイトで恥ずかしいだろ。

同じ話題に関連した文章なら、ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さん(そのへんのおばはんではありません、念の為)のブログの方がよほど面白い。

 

そして国会議員さんのおどろくべき

ニュースも飛び込んで来て、私は朝から完全にもらい事故。

「次はあなたよ」と母から電話があったり

「マネージャーの松田君が録音してないか確かめてから怒鳴るように」など、不必要なアドバイスまであったり。

人のふり見て我がふり直せですね。

 (高嶋ちさ子オフィシャルブログ6/25より一部引用)

 

 岩田氏のツイッターとなると、読むに堪えないこともときどきある。ひとつには政治学者・山口二郎氏の2年前のアジ演説の一部を切り取って何度も何度も執拗に引用し揶揄し続けること。2年間にわたるその執拗さには辟易とする。

あるいは意味不明の罵倒もある。岩田氏が学生時代を過ごした大学での私怨から発しているとしか思えないのだが、某教授の実名をあげて人格攻撃と罵倒を繰り返す。批判ならよい。言論人としての批判はおおいに展開すればよい。岩田氏が5月から6月にかけて3回繰り返したこの罵倒ツイートにはどこにも批判の手がかりがない。きっかけはこの教授が新著を上梓したということであるらしい。岩田氏は自分の嫌いな人間が本を出版することも許さないのか。それでよく「僕はリベラルな保守」と言えるな。岩田氏は書く。「ゴミ」「家に置いておくだけで恥ずかしい」「白紙の方がずっと有益」・・・もっとあるが、本の内容については一言もない。従って批判の視点がどこにもなく、ただ悪罵の羅列があるだけだ。それだけでは憤怒が収まらず、日を改めて罵倒を繰り返す。「言論弾圧マニア」「早稲田大学の恥辱」等々、3週間で計3回、そのつど実名をフルネームであげて、不特定多数が見ているツイッターで人格攻撃と侮辱を加える。刑法上も民法上も不法行為だろう。さっさと削除したほうがよいと思う。

 

どのような事情があるのか知らないが、どのような事情があるにせよ、他者に対して守らなければならない規範があるはずだ。他者とは、仲間内の人間以外の人という意味である。規範意識は他者を尊重する心から生まれる。そして「他者の発見」はリベラリズムのひとつの要件ではないのか。岩田温氏は「リベラルな保守」を自認しているのではなかったか。リベラリズムは真に氏の血肉から発する思想か。知識によって得た衣装ではないのか。

 

 岩田氏のツイッターで見かけるこの種の乱暴さは頻繁にあるわけではない(たまにある)。私がもう氏のツイートをフォローするのをやめようと思ったのは、平常のツイートにも私の心と何か波長が合わない香りが漂っていて、うんざりしたからである。フォローしていると、氏の呟きがそのつど私のPC上に流れてくる。いったん打ち切って、気が向いたときだけ氏のアカウントを覗けばいいのだと考えて、今年の春先に岩田氏へのフォローを解除した。1か月ぐらいしてから岩田氏も私へのフォローを解除した。気が向いて氏のアカウントを閲覧することはもうたまにしかない。今後ブロックされればそれまで、一向にかまわない。

 一般にツイッターでの発言はその人の普段着での呟きであり、ある一つのツイートだけを取り出して批判の対象とするような振舞は大人げないとも思う。だが同趣旨の発言を日を改めて繰返し強調している場合、あるいはその人の年来の主張に即しての発言である場合には、その流れを踏まえて批判することは“あり”だと思う。

 そのような観点から私は今年2月の当ブログで岩田氏のツイートを強く批判したことがある。岩田氏が遠藤周作の小説『沈黙』への嫌悪感をツイッターで、1か月の間をおいて2度発信したときである。今年2月の当ブログ「『沈黙』――小説と映画」に「付記」という項を添えて、岩田氏の年来の文学観を批判したのだ。かなりきつい言葉を連ねて、文学は政治の具ではない、と主張した。今その「付記」は削除している。ブログ本文の主旨は『沈黙』の小説と映画を比較しての感想であり、それだけでもかなりの長文だ。当該「付記」も長い。本論のテーマに直接関係しない「付記」が全体のバランスを崩すことを危惧しつつ、それでも岩田氏の発言を見過ごすこともできず、1か月の期間限定のつもりで「付記」を掲載することにした。そして1か月半後に当該「付記」を削除した。私自身の不都合に起因する削除ではない。原稿はPCに保管しているので、必要あればいつでも簡単に復活できる。たぶん必要はないと思うが。

 岩田氏が執筆した雑誌記事を手厳しく批判したこともある。20164月発売の「正論SP(スペシャル)」に掲載された『憲法マップ』とそれに関連した岩田氏の解説文『政治家と知識人』についてである。当ブログ201671日付の拙文『オープンマインドな憲法論議を ――「憲法マップ」への疑問』でその記事のお粗末さを批判した。これは削除していない。当ブログ右欄の2016アーカイブの中に保存されている。

 

 さて、ここまで延べたような岩田氏の思索者としての質の高さや豊かさと、氏のネット上等での発言の凡庸さや愚劣さとの間にはすごい落差がある。なぜなのか? と考えても仕方がない。そんな「なぜ?」には関心がない。落差があるな、と思うだけである。

 

【「リベラルな保守」って何?】

 岩田氏はSNS等で「リベラルな保守」という言葉で自己を規定していることがよくある。近年なし崩し的に使う頻度が増えているようだが、「リベラルな保守」とはどのような思想であるのか、それについての氏のまとまった論考を、今の時点で私の知る範囲では読んだり聞いたりしていない。本稿冒頭で掲げた3冊の本の中にもない。氏が近年よく使うようになった言葉である。

 たとえばどのようなときに使っているか。

 自分は意見が違う人とも仲良くできる、だからリベラルな精神の持主なのだというニュアンスで自賛しているのを何度か見かけた。ただそのとき、その人と意見の違いについて議論をしている姿を見たことは一度もない。「意見は違うが・・・」と呟きはするが、その人と真剣に議論をするのは避ける。

たとえば民主党(現・民進党)の参議院議員小西洋之氏に対して、あれほど嫌悪感を剥き出しにしてツイッターで繰返し批判していたのに、いざ「朝まで生テレビ」の楽屋で仲良くなると、「意見は違うが、いい人だ」となって、そのリベラル(?)な態度をツイッターなどで自賛する。討論番組なのだから激論を交わして、そのうえで肝胆相照らしたのなら立派なのだが。 私は岩田氏の小西氏への嫌悪感をこめたツイートを見ていたから、番組が始まると、議論が白熱し、ついには岩田氏が隠し持ったフライパンを取り出して小西氏の顔面をひっぱたくのではないかと、はらはらして見ていた。手に汗を握っていた。そんなことは全然なく、和やかに番組は終わった。「意見の違い」を激しく戦わせる場面もなかった。

 意見の違う「他者」との真摯な議論は、リベラリストを標榜する知識人の役目ではないのか。

 岩田氏が議論をする姿を見たことがないと上に書いたが、NHKの番組で半藤一利氏や鳥越俊太郎氏と議論をしたことはあった。ただこれらは、左の論客氏が紋切り型の発言をし、それに対し岩田氏が保守の立場のおなじみの意見を述べただけのことであった。それは岩田氏の責任ではない。NHKの討論番組とはそういうものだから。

 

(補記)最近チャンネル桜の番組で、岩田氏と佐藤健志氏の意見が対立している場面を見かけた。短時間見ただけなので、議論に発展したのかどうかは分からない。いずれ番組全体を視聴しようとは思っている。

 

 私がここでいう議論とは、知識人どうしの真剣勝負のことである。対立する意見が収束しなくともよい。活字のうえでの議論の応酬なら、質の高い議論の場合には、そこから読者がどれだけ啓発されることか。それが知識人のもたらす功徳である。英語学者渡部昇一参議院議員平泉渉との英語教育大論争(1975年)、あるいは二人の国際政治学坂本義和高坂正尭との平和論を巡る論争(195963年)などは収束しなかったが、歴史に残る名論争だった(いずれも故人なので「氏」の敬称は添えない)。名論争はほかにも色々ある。それほどの名論争ではなくても、真剣な議論は論壇に出る――出ない生き方もあるが――知識人の役目ではないか。あとになって「意見は違うけど」と申し訳をするのではなく。

 いったい岩田氏にとって「リベラル」とはどういう意味を持っているのだろう。今後それについてまとまった論考の発表があるのかもしれないが、いつになるのやら分からないので、今の時点での岩田氏の発言を捉えて考えるしかない。

 ツイッター上での断片的な「リベラル」発言ではなく、多少なりともまとまった発言は月刊誌正論20175月号に掲載された記事でやっと読むことができる。湯浅博著『全体主義と闘った男 河合栄治郎』の書評である。この記事は雑誌販売終了後に岩田氏のブログに転載され、翌日に言論サイト「アゴラ」(前記)に再転載された。私は「アゴラ」で読んだ。記事のタイトルは『リベラリズムの可能性 今、河合栄治郎を読み返す』である。

 記事中で「社会的弱者への愛情、左右の全体主義と闘う気概、幅広い読書に裏打ちされた論理、そして、祖国への燃え上がるような愛国心こそが栄治郎の真髄であり、リベラリストの条件に他ならないであろう」と、リベラリストの諸条件を列挙している。これは必要条件だろうか、十分条件だろうか。十分条件ではあるまい。リベラリズムの肝ともいうべき「寛容の精神」が挙げられていないからである。

 ヨーロッパ全土を血で洗った長い宗教戦争を経て、ウエストファリア条約(1648年)による主権国家体制の時代が始まった。寛容の精神をもって、異なる宗教、価値観を持つ他者の存在を尊重するという思想が芽生えた。17世紀から18世紀にかけて普及した啓蒙思想とともに、この寛容の精神がリベラリズムの源泉となった。

 リベラリストの条件として岩田氏が列挙したうちのひとつに「社会的弱者への愛情」がある。自由放任を基本原理とした古典的自由主義が結果的に社会的弱者への迫害をもたらしたことへの反省から、近代自由主義では「社会的公正」の概念が取り入れられた。この公正論をリベラリズム思想の核に置いたのが、20世紀の哲学者ジョン・ロールズである。

岩田氏は前掲の記事の冒頭で「ジョン・ロールズが『正義論』を執筆して以来、「リベラル」の意味が変容してしまったが、ロールズ以前のリベラリズムを再評価すべきではないかと思うのだ」と書いている。岩田氏がロールズリベラリズムについて言及しているのは、(今のところ私の知る範囲では)これがすべてである。きっと岩田氏の頭の中に色々な考えがあるのだろうが、それを私なりに推測すると、ロールズの社会的公正の考え方がリベラリズム社会民主主義への親和性をもたらしたという点に批判の眼を向けているのかもしれない。特に現代日本では、「リベラル」という言葉は通俗的に「左翼」の代名詞となっているのだから。

そして現代日本で流通している「リベラル」という言葉は、「個人の国家からの自由」を含意し、反ナショナリズム意識にも通じているのである。

岩田氏は、このような社会民主主義と反ナショナリズムが合体した「リベラル」に反発し、本来リベラリズムは祖国愛の精神を含み、かつ左右の全体主義に反対する立場であると主張しているものと思われる。なにしろ現代日本の「リベラル」は左翼全体主義への親和性を日増しに色濃くしつつあるのだ。

 左右の全体主義は、共同体の統治者が共同体共通の「善」であるとみなす価値観で個人の思想の自由を奪うシステムである。何を「善」と考えるかは人それぞれであり、それら複数の価値観が互いに相容れない場合もある。リベラリズムによる統治の目的は、共同体の「共通善」を見出すことではなく、それら複数の価値観の上に立つ「公正」さを求めることである。ロールズリベラリズムの基本にある「善に対する正義の優位」という概念はそういう意味である。 

 岩田氏は、ロールズ以前のリベラリズムに戻ることを主張しているようだ。それは共同体の「共通善」への郷愁だろうか。いや、岩田氏自身が何も語ってない段階で、推測を重ねるのは失礼というものだ。このへんでやめておこう。

 ロールズリベラリズムを批判する有力な思潮に、20世紀後半より台頭してきたコミュニタリアニズムがある。コミュニタリアニズムとは、共同体には歴史的に培われてきた固有の共通の価値観があり、その共同体で生きる個人はその「共通善」によってアイデンティティを形成しているのだ、という考え方である。コミュニタリアニズムは「善に対する正義の優位」を主張するリベラリズムを批判し、共同体の「共通善」に重きを置く。

 このリベラリズムコミュニタリアニズムの対立は、国境を超えた普遍的な正義を追求するグローバリズムと、各国に顕在化してきているナショナリズムとが併存している現代世界の構造を反映している。

 さらにリバタリアニズムの思潮も無視できないが、本稿のテーマから離れてしまうので、ここまでとしておく。

 

 岩田氏が言う「リベラルな保守」の意味が、私にはまだほとんど分からない。21世紀の世界にリベラリズムは有効か、コミュニタリアニズムは有効かという問題意識をも含めて、今後縦横に論じていただきたいと期待している。

(了)