月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

議論と思考を放棄する人たち――井上達夫バッシング

 『朝まで生テレビ!』は、1980年代後半から90年代前半にかけて、録画してちびちび見ていたこともあった。当時としては新鮮な企画であり、物珍しさもあったのだ。近年は殆ど見ることがない。言論の断片が飛び交っているだけだから、貴重な時間をこんな番組の視聴で浪費したくないという思いが強い。
 言論の断片に関心があるのなら、テレビを消して、その論客氏の著書を1冊でも2冊でも読んだほうが余程豊かな理解をもたらすであろう。
 あるいは言論バトルが面白いという視聴者も多いのだろう。「議論」は大切だと思うが、そんなバトルなど面白くもなんともない。
 というわけで、年明け早々の「朝生テレビ」(1日午前1時~5時50分)も見る気はなく、当然録画もしなかった。
 ところがその後ツイッターを覗いてみると、同番組のパネラーの一人であった井上達夫氏(法哲学者)への批判や罵倒が満開になっていた。それらの書き込みを読んでいくと、井上氏に特段新しい発言があったわけではなさそうだ。氏が今まで著書で深く考察し論理展開をしてきた言論の断片がオンエアされただけのことだと察しがつく。
 しかしその番組を見ないままで本稿を書くのも気がひけるので、youtubeでちびちびと視聴し、前半2分の1くらいは見た。上記「察し」のとおりであった。
 「井上達夫」で検索すると、今日あたりは冷静な書き込みが多くなっていてほっとするが、放送直後元日の同欄は井上氏へのバッシングが溢れかえっていた。井上氏に賛同する発言も散見されたが、悪口が圧倒的多数だった。
 憲法から9条の削除をかねてより主張している井上氏だから、護憲左派からの反発が大きいかと予想したが、ざっと閲覧した範囲ではそのような書き込みは見当たらなかった。番組後半は未視聴なので、井上氏がその持論をどのように発言したのかについて私は知らない。
 ツイッター上で私が見たバッシングは、いわゆる右からの発言ばかりだった。
 「基地外」「世界人類のために早く死ね」「こんなアホとは思わなかった」等々の罵詈雑言はツイッターにつきものの下劣さだが、井上氏の発言にいちいちレッテルを貼って勝ち誇って見せる態度からは、この人たちは井上氏の著書を1冊も読まず、従って言論の断片に脊髄反射しているだけなのだなと分かる。

 「現実が歪んで見える東大教授」とツイートしている人は、氏の著書を読めば全然歪んでいないことが分かるはずだ(賛否を言っているのではない)。この人自身が井上氏の片言隻語を勝手に歪めているだけなのだ。

 「朝日新聞お気に入りの文化人」というレッテルも見かけたが、ある書き手が井上氏の持論である護憲派批判を紹介した原稿で、朝日新聞編集部がその部分を削除させたという事実を知らないのだろう。朝日新聞にとって「井上達夫」は検閲のキーワード化しているのだ。
 井上氏の物言いが傲慢だというツイートもたくさんあった。曰く「東大教授の俺様が言うんだから間違いない、みたいな人物です」――厳しさを備えたフェアーな態度で議論しようとしている井上氏の姿勢をこのようにしか受け止められない貧しさ。厳しさを傲慢さと間違う軟弱さ。この人は著書を1冊も読んでませんと自白しているも同然である。どの著書を読んでも、井上氏が他者とのフェアーな議論をどれだけ大切にしているかが分かろうものを。
 井上氏が天皇制廃止論者であることを知ると、即「この東大教授は日本人じゃない」というお決まりのレッテルを貼る。それで勝ったつもりでいるのだ。
 井上氏は、天皇制廃止の結論に達する前に、日本人にとって天皇の存在はどのような意味を持っているのかという問題を提起しているのである。賛否を急ぐ前に、それについて考えてみればいいではないか。考えることが不敬なのか。
 私の立場をいえば、日本の文化的伝統の継承という意味で、皇室への尊崇の念はある。しかしTVで天皇陛下のお言葉を聴いて感極まったりする感性は私にはない。また日本の伝統的な共同体意識に敬意を持つ反面、個の責任の曖昧さや、同調圧力と部外者に対する精神的迫害という負のセンスには反感を持っている。この負のセンスと長い歴史のなかで天皇を戴き続けた感覚には通底するものがあると考えるから、基本的に皇室に尊崇の念を持ちつつもいささか複雑な思いもあるのである。
 すぐにレッテルを貼るのではなく、考えればいいではないか。私も井上氏の論に同意しないが、ならば、氏の論を熟読し己の考えを鍛えて深めたいと思うのである。そう簡単にはいかず、かなわないと思うこともあるが、ならばそこでそのままにしておき、考え続けるべき課題とすればいいのである。
 井上氏と私とでは、知識量はもちろんのこと、鍛えぬいた思索の深さで、月とスッポンである。だが一寸の虫にも五分の魂があるように、スッポンにも考える意欲だけはあるのだ。レッテル貼りをしている暇などないのである。
 なお枝葉のところで過ちを犯すことは井上氏にもあろう。例えば小林よしのり氏との対談本『ザ・議論』の125ページで、井上氏はモハメド・アリの徴兵拒否を称賛しているのだが、その枕詞として「エルヴィス・プレスリーベトナム戦争のときに徴兵に応じたけど」と言っている。これは明らかに井上氏の思い違いである。プレスリーは1958年に徴兵され、西独の米軍基地に配属された。それが事実である。
 上の例は本筋に関係しないちょっとした思い違いだったが、広島を訪問したオバマ大統領が被曝者をハグしたときその老人は顔をそむけていた、という「朝生テレビ」での井上氏の発言は間違っていると思う。私もそのハグの場面はTVで見たし、その老人(森茂昭氏)へのインタビューも聞いた。森氏は原爆で亡くなった米兵捕虜の追悼を続けてきた方で、彼はけっして現職アメリカ大統領への反発を行動に表したわけではない。これはプレスリー徴兵についてのちょっとした思い違いとは違って、その場面を先入見を持って見ているという意味で、思想家としての瑕疵だろう。これに対する批判ツイートもあったが、それは正当な指摘だと思う。罵詈雑言やレッテル貼りとは同質ではない。
 気持ちの悪いツイートがウヨウヨ蠢くなかで、次のツイートは救いだった(HN:一文学徒)。

 

井上達夫先生の講義を受けている学生として、twitter上での完全な誤解が気になるが、その大半が「反日親中」「左翼」「態度がムカつく」「東大は○○」だの議論と関係ないルサンチマンの論理。ムカついたら著書などを読んでみるべきで、勝手なレッテル貼りはナンセンス

 

 井上氏の著書を1冊でも読んだことがある者は、きっとこの学生のツイートに共感するだろう。

 


 昨年大晦日早朝のNHKラジオエッセーで俳優の仲代達矢氏が大意次のように語っていた。
憲法改正がいわれるようになってきたが、だいたい国を守るなんて言い出すと危ないんですね。みんな仲良くすればいいじゃないですか。日本は70年余りずっと戦ってこなかったんですからね」
 録音していたわけではないが、主旨はこのとおりである。語調も仲代氏の語り口を再現するように努めた。(放送直後にツイートしたので印象新しいうちの要約である)
 公共の電波を通じての発言なので、発言者の名を遠慮なく明記した次第であるが、日本の映画界にはこれとまったく同じ発言をする人がたくさんいる。仲代氏一人ではない。いや、映画界にかぎらない。有名無名を問わず、これと瓜二つの発言をする人たちが日本の津々浦々に夥しくいる。まるで定型句のゴム印が一斉に発売されたようにである。
 今ここで発言内容を批評するつもりはない。長年繰り返されてきたこの定型句に対する反論は多くの論者から数えきれないほどぶつけられてきた。この定型句を口にする人たちは、反論に直面したときその反論を熟考したうえで自分の主張をより深めるべく鍛えようとしないのである。いや、直面すらしていないのだ。聞く耳を持たないからである。馬耳東風とはよく言ったものだ。だから何かかけられたカエルみたいな顔をして、しれっと十年一日同じ定型句を言い続けるのである。議論の生まれる余地がない。

 

 議論と思考を放棄する人たちは、立場の左右にかかわらず、たくさんいる。どの程度にたくさんいるのか、私にはよく分からない。あんまりたくさんだと、日本の民主主義は壊れると思う。
(了)