月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』を読む

****** 目 次 ******
【はじめに】
【否定性の否定に漂う哀惜】
【否定性と内閉性】
【内閉性とデタッチメント】
【井戸を掘ることとコミットメント】
【社会的責任の自覚】
【偏在する壁】
村上春樹にとっての「歴史」】
【思想と知性】
【大きな主題と小さな主題】

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【はじめに】
 加藤典洋氏の近著『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書)の論考はとてもスリリングで、読んで大いに刺激を受けた。
 加藤氏はこれまでも、大学で学生たちを指導しつつ村上春樹の作品への探求を深め、その成果をいくつかの著書として公にしてきた。私は不勉強のため、加藤氏の村上春樹論を読むのはこれが初めてである。
 以下は、表題書から触発され、私自身の村上春樹観を顧みて書き進めた文章である。したがって記述は表題書にあるときは即し、あるときは離れて進んでいく。
 表題書の論点をくまなく要約しているわけではない。それが目的ではない。もちろん“書評”などというおこがましいものではない。
 なお、村上春樹歴史認識や政治的発言について私が書き連ねている部分は、加藤氏の考えとはまったく相容れないところだろう。これは100パーセント私の拙い考えによる文章であることを、加藤氏の名誉のために申し添えておく。

 

【否定性の否定に漂う哀惜】
 村上春樹がデビュー作『風の歌を聴け』を著したのは1979年である。作品中の「現在」は1970年で、地名の固有名詞や方言は一切書かれていない(注)が、当時のアメリカンポップカルチャーの空気が漂う芦屋の心象風景が作品に反映されている。
(注)本編とは別に、単行本で「あとがきにかえて」という副題が添えられたページには「神戸の古本屋」という記載がある。本編では、舞台を「前は海、後ろは山。隣には巨大な港町がある。(中略)人口は7万と少し。」と説明しているにとどまる。

 日本の1970年代は、ニクソンショック(1971年)に端を発する変動相場制への移行で急速に円高が進行し、さらに第一次オイルショック(1973年)の試練を経て、それまでの高度経済成長の時代が終焉を迎え、安定成長へと転換した時代である。日本のGNPは既に1968年に西独を抜き、世界第二位の規模となっていた。やがて高度資本主義の時代を迎え、消費文化が花開く1980年代の前夜である。
 そんな時代に登場した『風の歌を聴け』を、加藤氏は「日本の戦後の文学史に現れた、最初の、自覚的に「肯定的なことを肯定する」作品だった」(表題書p.27 ――以下、表題書からの引用はページ数のみを記す)と指摘する。
 近代を推進した原動力は「否定性」だった。加藤氏の言葉を借りながらいうと、不合理を正当化する権威と権力を否定すること、その否定性が身分制を倒し、近代社会を実現してきた。「近代の文学は、この否定性をロマン主義的な理想と結びつけて人々を引きつけ、それは家の権威、家父長たる「父」への反逆という範型をとってきた」(p.27)のである。
 私見によれば、村上春樹の小説は1960年代への訣別から出発している。初期三部作で、『風の歌を聴け』(1979年)は1970年を、『1973年のピンボール』(1980年)は1973年を、『羊をめぐる冒険』(1982年)は1978年をそれぞれ舞台としている。『羊をめぐる冒険』のプロローグともいうべき第一章では、「そしてあの不器用な一九六〇年代もかたかたという軋んだ音を立てながらまさに幕を閉じようとしていた」と、訣別した時代が回想される。「僕」が1969年に知り合った「誰とでも寝る女の子」は1978年に26歳で事故死し、そして羊をめぐる冒険の幕が切って落とされるのだ。
 村上春樹より一足早く華々しいデビューを飾った村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(1976年)には反米という否定性が含まれていたが、その龍は1980年代に一転「肯定性を肯定」するようになる。彼はサザンオールスターズ桑田佳祐(1978年にデビュー)のポップスに着目し、否定性ではなく肯定性を肯定するポップスに時代の精神を見出す。人間の苦悩や思想よりも、シンプルな欲望の肯定にポップスの本質を見出すのだ。「喉が渇いた、ビールを飲む、うまい!」「横に女がいる、きれいだ、やりたい!」「すてきなワンピース、買った、うれしい!」というわけだ(村上龍『無敵のサザンオールスターズ』(1984年)より。加藤書p.34~35)。
 この龍の肯定性の肯定に照応するのが、春樹の『風の歌を聴け』に登場する架空の作家デレク・ハートフィールドのエッセイのタイトル「気分が良くて何が悪い?」だ。村上春樹もまた「不器用な1960年代」(否定性)に訣別し肯定性の80年代を受け入れるのだが、同時に没落する否定性への哀惜の思いも強い。龍の肯定性の肯定は、陳腐化するつど、肯定性の更新を余儀なくされるが、春樹は否定性の否定を止揚しようとする意思を持っている。
 「没落する否定性」に向けられる村上春樹の哀惜の念は、初期三部作で「僕」の親友として登場する「鼠」の悲劇として描かれている。「鼠」の生まれ育ちは芦屋と思しき町の金持ちの家である。そして「鼠」は金持ちを呪詛している。「鼠」は1960年代の反抗精神の象徴である。『風の歌を聴け』では、「鼠」の対極として、貧しさを象徴する「4本指の女の子」が設定され、「僕」はその中間に位置している。
 加藤氏は書く。

 

 金持ちの息子である「鼠」の自己否定ないし否定性の表現である「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」に対して中産階級である「僕」はクールな距離を保つ。「鼠」の、親が金持ちなのは「俺のせいじゃないさ」に対し、「いや、お前のせいさ」という「僕」が小説の主人公として新しいのは、この「否定性」との距離が絶妙だからである。(p.32 傍線は原文では傍点 ――以下同じ)

 

 「鼠」は、『羊をめぐる冒険』のなかで「羊」(近代日本の負の象徴)に心身を乗っ取られ、「羊」の隙をついて自死する。
 三部作を通じて、村上春樹は「鼠」を哀惜の念をもって見送っている。私見では、「鼠」は村上春樹の一面での分身でもあるからだ。
 村上春樹は、その文学の出発点において、「気分が良くて何が悪い?」という肯定性の時代を受け入れつつ、没落する否定性への哀惜の思いを抱き、そして哀惜にとどまらずその再生を願って苦闘したのだろうと思う。「鼠」はいったんは三部作の終盤で逝ってしまったが、「僕」の影ともいうべき「鼠的なるもの」はこの後の作品にも登場する。
 加藤氏は、村上春樹の初期短編『中国行きのスロウ・ボート』や『貧乏な叔母さんの話』(どちらも初出は1980年)を読み込み、「「肯定性」の時代に時代遅れの「否定性」へのまなざしを主題に書くという反時代的な企て」(p.53)を浮き彫りにしている。私もこの2つの短編から受けた印象はそれぞれに深く、この30数年の間、数年おきに繰り返し読んできた。何か心惹かれるものがあるから、自然と手に取ってページを開いてしまうのだ。何に惹かれているのか、私はそれを言語化する能力を持っていなかった。だが加藤氏の、彫刻家が木を彫って命ある像を鮮やかに現出させるような手際に、私はどきどきしながらページをめくっていた。

 

【否定性と内閉性】
 村上春樹の初期から中期(注)にかけての作品では個の内閉性の描写が印象的である。(注)作品歴の時期区分についての詳細は表題書p.108を参照。 内閉性を作品の主題の要素のひとつとして描いている長編が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)である。これはエンタテインメント性と精神の深さを併せ持った長編小説で、数年おきに何度読んでも飽きない面白さがある。エンタテインメント性は村上春樹作品の殆どにあるのだが、この長編は特に面白い。
 リアルな世界である「ハードボイルド・ワンダーランド」のパラレルワールドが「世界の終り」で、それは脳内のヴァーチャルな世界である。「世界の終り」の住人には「影」がなく、したがって葛藤や相克がなく、満ち足りた幸福感とともに生きている。「僕」の否定性や苦悩を担っていた「影」は切り離されて、独房に閉じ込められている。「影」との面会を許された「僕」は、「影」に脱出計画を持ちかけられる。「影」は再び本体と一体になることを望んで、「僕」を説得する。「僕」と「影」は周到な計画のもと「世界の終り」からの脱出を決行する。しかし「本当の生命が本来の姿で生きている場所」に通じる川のほとりまで来たところで、「僕」は「僕はここに残ろうと思うんだ」と「影」に告げる。「影」は「俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界はちゃんと外にあるんだ」と言って、雪の中に座り込み、頭を何度か左右に振る。「僕」は「影」に答える。「僕には僕の責任があるんだ。僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだしていってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」。やがて「影」はその場で消えていく。それを見送る「僕」の姿には悲哀感が漂っている。「影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じていないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ」。
 この内閉的なヴァーチャル世界では、人間の生から生じる矛盾や葛藤は、この世界の辺境外に棲息する一角獣の脳に溜め込まれ、一角獣はその負荷で次々に死んでいく。「僕」の仕事は、棄てられた人間の葛藤や夢を一角獣の頭蓋骨から読み出し、それらを大地に返してやることだ。
 「影」はこの世界は間違っているとして、その不合理を糾弾した(否定性)。「僕」は、上述のように、最終的には「影」が主張する否定性に同調せず、矛盾や葛藤を切り離した内閉性に留まるのである。
 加藤氏はこの「僕」の態度を、近代的な問題の枠組み(不合理性の否定、糾弾)からの離脱と捉える。

 

 近代的な否定性は、内閉的な存在を前にしては、そこから外に出ろ、としかいえない。しかし、それではもはや内閉世界の問題は解けない。「外に出ろ」がそこでもはや答えではありえないことを、この作品は語っている。もはや戦場が、内閉世界のただなかに移っており、否定性のゆくえを追うだけでは辿りきれないことを、村上はこの長編で語っていたのである。(p.95)

 

 では、「内閉世界の戦場」とは何を意味するのだろうか。

 

【内閉性とデタッチメント】
 加藤氏はカントの哲学を援用し、万人が共有するモラルと個人的に自分一人に課すルール(マクシム)について、マクシムからモラルへと進むカントの手順を逆転させたのが村上春樹のデタッチメントの姿勢であると考えている。

 

 ところで村上はそれを逆転させる。万人用の善の基準としてのモラル ―― 正義と善を求め、理想を手放さず、理不尽なものにはノーという、等々の「否定性」の素 ―― が失効し、人に見捨てられるような時期には、せめて自分用のルールを作り、それを墨守することが、少なくとも世間のニヒリズムに染まらないための抵抗の砦となる。社会的に何の意味がなくとも、自分の行動基準として社会の風潮に染まらない自己を保持することは、そういう時代、モラルとしての「否定性」を仮死のままになお生き延びさせる唯一の方法となりうるだろう。村上はこの一点にこの時代の抵抗の可能性を見出そうとする。抵抗としてのデタッチメント。それが私がここでマクシムと呼ぶものである。(p.101)

 

 その後このマクシムの自壊が短編『ファミリー・アフェア』(1985年)でテーマとされ、死と再生の物語である『ノルウェイの森』(1987年)を経て、中期後半以降に、作品にとどまらず社会的発言を含めて、顕著になってくるコミットメントの姿勢へと転換していくのである。
 だが、そのデタッチメントは戦略的に「戦場」の姿勢として採用されたものであっただろうか。
 たしかに若い頃の村上春樹のマクシムの実践は見事である。私生活においても、七年を要した大学生活を終えて就職という道を採らず、夫婦それぞれのアルバイトの蓄えと岳父や友人や銀行からかき集めた借金を資金としてジャズカフェの経営を在学中から始め、成功した。ひと口に「成功した」といっても、そこには並々ならぬ苦労があったにちがいなく、その一端は彼の近著『職業としての小説家』(2015年)にも書かれている、不渡り寸前の“シンクロニシティ”などにも触れながら。それを読めば、村上春樹という人物はタフな実生活者であり、かつ本質的に誠実な精神の持ち主であることがよくわかる。言葉に対する誠実さは作品を読めばわかることだが、人生に対する誠実さがこの本から伝わってくる。
 学生時代は、人と手をつなぐのが嫌だとデモには一切参加せず、学生運動に携わる者たちの言葉の軽薄さと無責任さには終始批判的だった。また、作家専業となってからも、文壇とは一切付き合わず、編集者に対しても、「書きたいときに書きたいものだけを書く」という頑固な姿勢を駆け出しの頃から貫いてきた。並の新人なら干されてそれでおしまいというところだろう。30数年間の作品内容の軌跡を見るだけでも、けたはずれに強靭な精神の持ち主であることが分かる。
 村上春樹その人の実生活が健全で強い精神に支えられ営まれているだろうことに何ら疑いを持つものではない。だが作品世界に表現されている内閉的な心象風景には常に悲しみの調べが流れており、その調べは初期作品から最近作にいたるまで通底している。
 デビュー作『風の歌を聴け』では、小さい頃ひどく無口な子供であった「僕」の姿が回想されている。精神科医のカウンセリングに1年間通い続けたエピソードが興味深い。14歳の春に「僕」は堰を切ったように突然しゃべり始め、3か月間しゃべりまくり、高熱を発し、熱が引いた後「僕」は無口でもおしゃべりでもない平凡な少年になったということでこのエピソードは締めくくられる。
 デビュー後2作目の『1973年のピンボール』では、「僕」の良き話し相手であるジェイ(バーのマスター、中国人)の飼い猫(というよりジェイと同居する老友)が外出先で残酷な暴力を受け、「手のひらがマーマレードのようにぐしゃぐしゃに潰れ」て帰って来るエピソードが語られている。ジェイの老友(老猫)は、手が「万力にかけられたような具合」に「まるっきりのペシャンコ」にされ、「誰かが悪戯をしたのかもしれない」と推測されるような悪意に満ちた外界から帰って来るのだ。
 村上春樹が大の猫好きであることはよく知られた事実である。その村上春樹が物語るこのエピソードには、若い頃に彼が抱いていたであろう外界に対する絶望と静かな怒りが込められている。
 最近作の短編集『女のいない男たち』(2014年)でも、人を愛することができず、現実に真剣に向き合えない人間の悲哀や破滅のようすが描かれている。この「人と深いところで関われないようになってしまった」(注)悩みは、大作『1Q84』(2009・10年)のヒーロー「天吾」も、長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)の主人公「多崎つくる」も、心の内に抱えている。

(注)「多崎つくる」の言葉
 それは戦略としてのデタッチメント以前に、人格上の欠落なのである。
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で「影」の脱出決行の勧めを拒んで内閉の世界に留まった「僕」は、『ノルウェイの森』で精神を病んだ「直子」の内閉世界に入っていく。そして「直子」の自死を経て、現実世界に生還し「緑」との愛を育んでいく。
 加藤氏によれば、『ノルウェイの森』には、初期~中期前半の村上春樹作品で描かれたマクシムを砦とする(デタッチメント)作者の分身が怪物化した姿となり、それが「永沢さん」なる人物として登場する。「永沢さん」は権力欲や金銭欲とは無縁だが、好奇心はあり、広いタフな世界で自分を試してみたい、理想などない、必要なものは行動規範だと豪語する(のちに「永沢さん」は外交官になる)。この場面を受けて加藤氏は書く。

 

 このくだりを読めば永沢さんが「たしかに僕は下らない人間かもしれないけど、少くとも他人の邪魔をしたりしない」という「ファミリーアフェア」の「僕」、あの「確固としたいい加減な生き方」を貫こうとして自らの行動原理(マクシム)の自壊に出会う村上の前期の主人公像の、いわばあるべきでない後身にほかならないことがよくわかる。彼には他人との交渉は必要でない。というか、この人物はなぜか、他人に心を開くことのできない、自閉を抱えた存在なのである。かつてこのあり方は他人に動かされず、自分のスタイルとルールをもっているという意味で村上の小説にあっては肯定的な指標だった。しかし、いまやそのあり方は自閉の一形態とネガティブに作者に捉えられている。ここではかつて妻にあなたは他人を必要としていないといわれ、離婚された前期の『羊をめぐる冒険』の「僕」が、自分を「普通の人間」と感じる「僕」=ワタナベと、もう一人、自分の「行動原理」(マクシム)に徹する ―― あるいは淫する ―― 永沢さんとに分岐しているのである。(p.118~119)

 

 『ノルウェイの森』の「僕」(ワタナベ)は、のちの村上春樹のコミットメントへの姿勢の萌芽を見せている。そして重要な転機となった大作『ねじまき鳥クロニクル』(1994年・95年.第1部の雑誌初出は92~93年)以後、作品上では歴史の闇につながる「悪」との対決という形で、社会生活の上では政治的諸問題をめぐる発言の増加という形で、コミットメントの姿勢を明瞭にしてくるのだ。しかしなおかつ「人と深いところで関われない」自閉性を抱いた人間は、先に述べたように、最近作でも依然として主人公として登場してくるのである、救いを求めながら。

 

【井戸を掘ることとコミットメント】
 村上春樹は今も昔も日本のTVやラジオへの出演は一切拒んでいる(注)。初期の頃は、朗読会等で公衆の前に姿を現すこともなかった。
(注)オーストリアのラジオ局からインタビューを受けて収録出演したことはある(2011年)。
 村上春樹が公衆の前で肉声を披露したのは、1991年12月ニューヨークでのジェイ・マキナニー(作家)との公開対話(『芭蕉を遠く離れて―新しい日本の文学について』)が最初だった(すばる1993年3月号掲載)。超ベストセラー『ノルウェイの森』をめぐる騒ぎが村上夫妻の日本での生活を困難にし、プリンストン大学の客員研究員としてアメリカに滞在していた時期である(注) 。それは『ねじまき鳥クロニクル』の執筆を始めた時期でもある。
(注)1995年まで滞在し、タフツ大学を経て、最後の年はハーヴァード大学で日本文学担当の客員教授を務めた。
 『ねじまき鳥クロニクル』では、「僕」(岡田トオル)の精神が歴史の闇へと下降し、「悪」と戦い、喪失からの回復が追求される。「歴史」は初期の代表作『羊をめぐる冒険』でも作者に意識されていたが、それに正面からコミットしようとしたのはこれが初めてである。この2作での作者の「歴史」に向かう態度のちがいについて加藤氏は次のように説明している。

 

 村上はここ(引用者注:『羊をめぐる冒険』)で、こうした「近代日本」と「戦後日本」の戦後的解釈の定型=紋切り型を小説の枠組みに採用しながら、いわばその「否定性」を換骨奪胎し、脱構築することのほうに、この作品における「過去」の素材の活用の主眼を置いている。むしろその遠心性にこの作品の現実離脱(デタッチメント)の浮揚力が、かけられているのである。
 (中略)
 これに対し、近代日本批判の戦後的文脈の殺菌化、脱構築という要素が同じように見られるにせよ、『ねじまき鳥クロニクル』の歴史記述がもつ意味は、『羊をめぐる冒険』以来『ノルウェイの森』を通過して、いまや大きく変わっている。『羊をめぐる冒険』ではその殺菌化は、近代日本批判の『否定性』の文脈それ自体をカッコに入れること、つまり否定性の脱構築、デタッチメントを意味していた。これに対し、『ねじまき鳥クロニクル』に取り上げられる東アジア侵略、新京の植民地生活、ノモンハン事件の歴史記述としての力点は、近代日本批判の従来型の「否定性」を殺菌し、脱構築しながら、なおかつ、別種の新しい「否定性」を作り上げること、コミットすること、に置かれているからである。(p.130~131)

 

 このコミットは、「歴史」の闇に潜む悪を体現している「綿谷ノボル」に対する「僕(岡田トオル)」の戦いとして描かれる。といっても、「綿谷ノボル」が悪で「僕」が善だという単純な二項対立ではない。「歴史の暗い闇」は万人の深層で共有されている。その暗闇で「綿谷ノボル」の側と「僕」の側があるのであり、「綿谷ノボル」の側にシフトしてしまった「僕」の妻「クミコ」を取り戻そうとする物語である(作品全体はもっと複雑な構造をもつ大長編である)。「喪失」に力点が置かれていた初期~中期前半の作品に対して、ここでは「取り戻す」戦いが展開されているのである。
 「僕」は庭にある古井戸の底に潜り込んで壁抜けをする。村上春樹の諸作品で地底や井戸の底は個人の心の深層を表している。その孤絶の世界を深く掘り下げていくと、壁抜けをして他者とのつながりが得られるというのである。彼は『村上春樹河合隼雄に会いにいく』(1996年)のなかで、壁抜けによるコミットメントについて次のように語っている。

 

 コミットメントというのは何かというと、人と人とのかかわり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。

 

 『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」は庭の古井戸の底で地下水のつながりに達して壁抜けをし、「歴史」の世界で人類が積み重ねてきた「暴力」の問題に行きあたる。「暴力」はこの長編の主題の一角を占める問題である。「歴史の暗い闇」にはグロテスクで血なまぐさい「暴力」が充満している。それは「綿谷ノボル」の側にあると同時に「僕(岡田トオル)」の側にもある。
 村上春樹は前掲『村上春樹河合隼雄に会いにいく』のなかで、「歴史という縦の糸を持ってくることで、日本という国の中で生きる個人というのは、もっとわかりやすくなるのではないか」と言い、さらに「自分のなかの第二次世界大戦」、「真珠湾だろうがノモンハンだろうが、いろんなそういうものは自分のなかにあるんだ」と語っている。
 「自分のなかにある」歴史感覚は、井戸の底に沈潜し、壁抜けをすることによって得られる。それが『ねじまき鳥クロニクル』での歴史記述である。村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』の2部までを書き終え帰国後、社会的に発言する機会が増えていく。だが現実の政治的諸問題に対して、「自分のなかにある」という歴史認識に立ってなされる発言はどのようなものになるのか。それはほんとうにコミットメントなのだろうか。

 

【社会的責任の自覚】
 村上春樹は、1995年に相次いだ阪神淡路大震災オウム真理教事件から衝撃を受け、自分の社会的責任への思いが強くなり、帰国を決意する。
 加藤氏は、村上春樹が帰国直後に芦屋市で開いたチャリティの自作朗読会で、朗読作品として選んだ『めくらやなぎと眠る女』(初出1983年)の改作に注目する。オリジナル版は「僕」の「喪失」を描く作品だったが、朗読会にあたっての改作版では、「彼女」が心を損なって病んでいったことへの自分の過失責任に気づいて悔恨し、「僕」が年下のいとこに支えられる掌編となっている。
 これについて加藤氏は次のように分析している。

 

 この改変は、彼自身の回心を彼の故郷の被災地の住人に語りかけるものでもある。そのばあい、いまあなた方は大変な目に遭っているけれど、そういうあなた方に逆に「救いの手をさしのべられ」、社会へのコミットメントへと導かれた者として、自分はここに来ている。お礼を申し上げるべき者としてここにいる、というのが、村上の被災者へのメッセージの総体となる。これは、同時に、読者に向けた、彼の態度変更のマニフェストでもあったはずである。
 デタッチメントという態度の消極性を、かつて彼は批判されたのだが、いま、それを ―― わかる読者にはわかる仕方で ―― 反省するとともに、弱い他者にこそ、人が助けられうる、そのことのもつ新しい可能性に、光をあてるのである。(p.158~159)

 

 他方、オウム真理教事件から受けた衝撃を踏まえ、地下鉄サリン事件の被害者や遺族へのインタビューの記録『アンダーグラウンド』を1997年に発表した村上春樹は、引き続きオウム信者や元信者へのインタビューを行ない、それを『約束された場所で』(1998年)の1冊にまとめた。
 前者のインタビューを通じて村上春樹は、市井に暮らす平凡な人たち一人ひとりが担っている人生の深さに一種の啓示を受ける。
 後者の『約束された場所で』に収められた河合隼雄との対談(1997年)では、村上春樹は「悪」について語っている。

 

 悪というのは、僕にとってひとつの大きなモチーフでもあるんです。僕は昔から自分の小説の中で、悪というもののかたちを書きたいと思っていました。でもうまくしぼりこんでいくことができないんです。悪の一面については書けるんです。たとえば汚れとか、暴力とか、嘘とか。でも悪の全体像ということになると、その姿をとらえることができない。

 

 初期から中期にかけての村上春樹の作品に、「悪」のイメージはしばしば登場する。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)のリアルワールドである「ハードボイルド・ワンダーランド」で、地底に棲息する「やみくろ」はその代表的なものであろう。それは人類が背負っている邪悪な情念の結晶体とも思えるが、正体はよくわからない。『ねじまき鳥クロニクル』に登場する「綿谷ノボル」は、先述のとおり、「歴史」の闇に潜む人類の「悪」に呼応する存在だろう。「僕」(岡田トオル)もまた、人類の業ともいうべき「暴力」を用いて、それと戦うことになる。
 ではオウム真理教事件以後はどうか。

 

【偏在する壁】
 上の発言にあるように像を結ぶことが困難であった「悪というもののかたち」を模索し続けて、結実したのが『1Q84』(2009年・10年)である。
 村上春樹の文学は1960年代への訣別から出発していると先に述べたが、60年代をピークとしていた東西冷戦体制の大きな枠組は1980年代の幕引きとともに崩れ落ち、その後アメリカが目論んだ世界の一極支配体制もほどなく頓挫した。極がなくなり、21世紀の今、世界のパラダイムは溶解の只中にある。今はまだ21世紀のプロローグでしかない。剥き出しの暴力がグローバルに爆発する凄惨な近未来を私たちは生きていかなければならない。
 このような世界の状況のなか、村上春樹は『1Q84』で「リトル・ピープル」の概念を提起する。
 ビッグブラザー(注)を喪い不安に怯える現代人が生み出す「システム」の精神にしのびよって来るのが「リトル・ピープル」である。この「リトル・ピープル」は、大きな壁が崩れた後、世界のパラダイムが溶解しつつあるなかで、様々な場所で発生する小さな壁のメタファーである。オウム真理教もそのひとつである。
 (注)ジョージ・オーウェル『1984』(1949年)
 2014年11月ベルリンでのスピーチで村上春樹は、このように偏在する壁について、「壁は私たちを守ることもある。しかし私たちを守るためには、他者を排除しなければならない。それが壁の論理です。壁はやがて、ほかの仕組みの論理を受け入れない固定化したシステムとなります。時には暴力を伴って。」、「世界には民族、宗教、不寛容、原理主義、強欲や不安など様々な壁があります。」と語っている。(引用は中日新聞2014年11月10日WEB版による)
 このスピーチは2009年のエルサレムでのスピーチで強調した「壁」のテーマを受け継いだ内容となっている。エルサレムでは「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。」と宣言した。(引用は文藝春秋2009年4月号による)
 この宣言以降、村上春樹は発言に政治的主張を含めることになってきた。
 だが政治上の諸問題を考察するのならば、それは「常に卵の側に立」ってなどできるものではない。たとえ一国民にすぎない微小な立場であるとしても、政治について考えるには、治者の論理に考えをめぐらす必要があるのだ。

 「治者の論理」が悪で「卵の側」が善であるような思い込みは、多くの戦後日本人が共有している感覚であるが。

 

村上春樹にとっての「歴史」】
 村上春樹の政治的主張の例を挙げると、福島の原発事故を広島、長崎への原爆投下と関連づけての日本の原子力政策批判(2011年バルセロナでのスピーチ及び同年オーストリアのラジオでのインタビュー)、中国での反日暴動を受けて日本のナショナリズムの動きを戒める文章の朝日新聞への寄稿(2012年)、戦争責任について日本人の無責任さを批判する毎日新聞でのインタビュー記事(2014年)などがある。あるいはネットでの読者との交流(2015年1~5月)の記録本『村上さんのところ』(2015年)はほとんどが非政治的な雑談集であるが、なかには原発問題についての発言やその他政治に関する話題も散見する。
 それらの発言内容についてつぶさに検討することはここでは避けるが、いずれの政治的発言にも、物事を相対化して見る視点が欠けていることを指摘しておきたい。
 原発村上春樹の言葉でいえば「核発電所」)についていうならば、それは電力の安定供給を含むエネルギー安全保障のあり方について国家的見地から考えるべき問題である。再生可能エネルギーの供給を拡大すれば今すぐにも問題が解決するかのような議論は無知でなければ詐欺に等しい。現状の過大な化石燃料依存の状態が続けば、膨大な国富流出(目先の原油価格は政治的思惑の錯綜によって暴落し低迷しているが、いずれ大きく反転するだろう)、環境汚染、火力発電所の老朽化による危険、中東や南シナ海の政情不安による資源確保の危機等々により国家存立を危うくしかねない問題となる。これらの問題と原発の安全管理への努力と限界、それについての客観的で冷静な科学的判断をあわせて、多元連立方程式的思考で取り組むべき問題である。そのうえでの反原発論ならば傾聴に値する。
 だが村上春樹反原発反核発)論は、多元要素のほとんどを捨象し、原発事故の被害のみを考えよというものである。『村上さんのところ』で「効率っていったい何でしょう? 15万の人々(引用者注:福島の原発周辺で立ち退きを余儀なくされた人々)の人生を踏みつけ、ないがしろにするような効率に、どのような意味があるのでしょうか? それを「相対的な問題」として切り捨ててしまえるものでしょうか? というのが僕の意見です。」と村上春樹は言う。もちろん相対的な問題である。立ち退きを余儀なくされた人々の被害も重要な要素である。だが、上に述べたような国家存立の危機に関わる問題をただの「効率」の問題だとして、切り捨ててしまえるものだろうか。村上春樹には反原発論を大いに深めてもらいたいと思うが、複数の多元要素を相対化してそれについての考えを明らかにすべきだろう。
 『羊をめぐる冒険』に登場する「羊博士」は日本近代の歴史を愚劣と裁断しているが、これは初期から一貫した村上春樹自身の認識でもあろう。その認識が近年の政治発言に顕在化している。東アジアへの贖罪意識も、初期作品群から『1Q84』にいたるまで、様々な形で顔をのぞかせている。
 だが日本の近現代史についていうのなら、それを単調に否定したり肯定したりする前に、諸列強が帝国主義支配の野心をアジアで行動に移してくるなかで、日本が国家としてどのように生存の道を探ってきたのかを考えなければならない。それを愚劣と捉えるのも正義と捉えるのも、人それぞれの歴史観によるが、取捨選択された「史実」を時間軸に沿って積み重ねて考えていくことによってしかそれぞれの時代の「意味」は理解できないし、当然「現代」の位置づけも、そのような歴史観によってしか見えてこない。
 村上春樹の諸作品からは、初期以来、「歴史」への関心の強さがうかがえる。それは、ときには隠喩として、ときには換喩として表現されている。だが、それはクロノロジカルに脈略をもった「歴史」とはいいがたいと思う。仮に日本の近代を「愚劣」と切って捨てるのなら、ではなぜそのような愚劣な道に陥ったのか、客観条件と関連づけながらクロノロジカルに考えてみようとする視点がない。
 先述のように、村上春樹は井戸を掘って掘って、孤絶した底の底で壁抜けをして「歴史」の闇にたどり着くのである。それは人類が心の深層に共有している「歴史」である。ユング心理学を援用すれば、人類の集合的無意識の世界である。前掲の『村上春樹河合隼雄に会いにいく』のなかで、村上春樹は「歴史の縦の糸」をもってくることで日本という国に生きる個人がわかりやすくなると語っていたが、この「縦の糸」は時間軸を意味しているのではなく、井戸の底に下降するという意味であろう。村上春樹歴史認識は時空を超越している。
 長編『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)のなかで、「僕」は次のように語っている。

 

 羊男は肯いた。「じゃあ、まだ次の戦争は始まっていないんだね?」
 羊男の考える「この前の戦争」がいったいどの戦争を意味するのかはわからなかったけれど、僕は首を振っておいた。

 

 村上春樹にとって「この前の戦争」という言葉は無意味なのである。「歴史」は縦の時間軸に沿って理解すべきものではなく、「この前」も「前の前」も無意味な言葉なのだ。村上春樹にとって「歴史」は人類の集合的無意識層で水平的に共有され、つまり史実は「自分のなかにある」ということになる。
 だから現代日本の位置づけも、世界の情勢と歴史的経緯の関連のなかで捉えることが困難になる。日本国憲法は、その前文や9条に謳われている字面上の高邁な理想だけによって理解され、それを生み出した歴史的経緯や21世紀の日本の存立を困難たらしめる負の役割などに考えが及んでいない。例えば憲法9条で非核3原則が規定されている(注)のに、それが沖縄の米軍基地で骨抜きになっていると憤る(2011年オーストリアのラジオインタビュー。ネットマガジンalternaを参照した)が、「平和憲法」の正しさを自明の公理としているだけで、それを相対化して考えようとする姿勢が一切見られない。
(注)もちろん憲法に非核3原則が明文規定されているわけではない。非核3原則は政策上の問題であり、核保有は9条2項の許容範囲内だというのが政府の公式見解(1978年)である。これはこれで、憲法と現実のねじれにねじれた関係がもたらした詭弁ではあるが。
 護憲論とひと口にいっても様々な論者がいるが、村上春樹の場合は、そのなかでも最も幼稚な水準にあると言わざるを得ない。歴史観が欠けているからである。

 

【思想と知性】
 今月の初め、BSの朝のクラシック番組でデュオ・アマルの演奏を視聴した。2013年4月のコンサートを収録した番組の再放送で、私も二度目の鑑賞だった。「アマル」とはアラビア語で「希望」という意味だそうだ。デュオ・アマルは、イスラエル人のヤロン・コールベルクとパレスチナ人のビシャラ・ハロニ、2人とも1983年生まれの若手男性ピアニストのデュオである。特にシューベルト『幻想曲ヘ短調』の胸をかきむしるような情感豊かな演奏が素晴らしかった。
 NHKのインタビューでハロニは次のように語っていた。

 

 デュオにはソロにないお互いとの会話があります。自分だけではなく常にお互いを聞かなければなりません。音楽のなかではお互い同時に話すことができるのです。(中略)音楽の素晴らしいところは、言語にかかわらず、誰とでもコミュニケーションができることです。

 

 あるいはまた、次のような若い詩人のツイートが私の心に残った。昨年11月ソウルで開かれた日韓両国の詩人の交流イベントに参加したときの感想である。

 

 異文化で違う言語を使っていても、わからない部分があるなりにちゃんと響くから、人間って不思議だなあ。国籍より前に一人の人間を書けるのが文学のいいところだよね。

 

 芸術家の世界は、人間の論理的思考とは別の次元で広がり、心の深いところで他者の共感を呼ぶものだ。
 村上春樹の文学作品も同じだ。デュオ・アマルも、シューベルトも、若い詩人(ツイッター上の普段着での呟きだから礼儀上名を記さない)も、村上春樹も、心を持った人間の存在の本質に迫る思想の営みを深めている人たちである。
 デュオ・アマルのハロニは上の言葉に続けて、「そして僕たちはコミュニケーションが世界のあらゆる問題を解決する最良の方法だと信じています」と締めくくっている。それは願いであり、祈りでもあるだろう。芸術家が「世界のあらゆる問題」について言えることはそこまでである。人と人との交流が増え、コミュニケーションが深まれば、民族間の憎しみを多少は和らげることもあろう。だがそれで国家と国家、国家と集団、集団と集団間の戦争の問題はけして解決しないだろうと思う。問題の次元が異なるのだ。
 上記の若い詩人は素晴らしい詩を書いている人だ。自作の詩を朗読されるのをすぐ近くで拝聴したこともある。心に共鳴するものがある。韓国で民族の壁を抜けての響き合いを経験されたことも素晴らしいと思う。だが詩人はそれを政治的発言に短絡させているわけではない。そんな愚かなことはしていない。
 それはそれ、これはこれで次元が異なるのである。
 政治は、福田恆存が言ったように、知性と行動の問題である。歴史観の裏付けを備えた知性が、多元連立方程式を立てて問題の解決を模索し、行動する世界である。戦争をいかにして回避し平和を守るかという問題は特段に大きなテーマである。世界のカタストロフィーはもはや避けられない近未来の現実として迫っているのかもしれない。だがなおかつ生きていく以上は、ナロウパスを模索し続けなければならないのだ。それに「心」を対置してもお門違いというものである。
 村上春樹は、アーティストの政治発言をどう思うのか、という読者の質問に対して、アーティストの政治活動を基本的に肯定しつつも、「(前略)「アーティストが政治発言を始めると創作がつまらなくなる」というあなたの意見には、部分的に(あくまで部分的にですが)「そうかもしれない」と思わされるものがあります。どちらかといえばロジカルなアプローチを排した創作活動をしているアーティストが、政治的にロジカルな発言をするようになると、意識性と無意識性の錯綜が軽いクラッシュを起こす場合があります。このへんの兼ね合いはとてもむずかしいです。」と答えている(前掲『村上さんのところ』)。
 私は少なからずアーティストの政治発言を見聞きしてきたが、「政治的にロジカルな発言」に接したことはめったになかった。さらにいえば、村上春樹憲法論議のどこがロジカルなのだろうか。『村上春樹河合隼雄に会いにいく』のなかで、「ぼくらは平和憲法で育った世代で「平和がいちばんである」、「あやまちは二度とくり返しません」、「戦争は放棄しました」この三つで育ってきた。」と語り、この価値観をそのまま1960年代後半の学生運動に直結させている。(当時の学生運動護憲などという主張は、民青は別として、なかった)
 そして近年の政治発言でも、「この三つ」を自明の公理としているだけで、それを相対化して考えようとする視点を持っていない。どこがロジカルなのか。
 村上春樹は、福田恆存が『一匹と九十九匹』で書いたように、「文学のことばで政治を語る愚劣」に陥ってしまったのである。
 社会人として生きている以上、政治に対して意見を持つのは当然のことである。デュオ・アマルの2人も、詩人も、それぞれ一国民としての考えはあるだろうが、それを公的に発言することはないし、私も関心がない。
 村上春樹が政治について意見を発表するのはもちろん自由である。そしてそれが社会的責任の自覚に目覚めて帰国し、コミットメントの一環として行われているのなら、社会的責任の実(じつ)にもっと考えを及ぼすべきだろうと思う。私は、護憲だからけしからん、あるいは反原発反核発)だからけしからん、などとけちなことを言っているのではない。断じてない。発言の社会的影響力の大きさを考えるなら、政治は政治の知性と論理で考察し自分の意見を深めて発言するのが真の社会的責任のとり方であろうし、コミットメントであると思うのだ。
 心を持った人間存在の本質に迫る思想の営みは世界の人間全体にとって大変貴重なものである。その営みと政治の知性の間を連絡する何かしらの通路を求めたい誘惑に誰しもかられるものである。誘惑にかられて短絡してしまう者が少なくない。そんな通路はないというペシミズムに屈するほかないのかもしれない。数百年先のことかもしれないが、その通路が開く世界を私は夢想している。

 

【小さな主題と大きな主題】
 加藤氏は、村上春樹には小さな主題と大きな主題があるという。
 圧倒的な危険を含んでいる原子力エネルギーの利用を廃絶し得る安全なエネルギー源を開発実現化することこそが、広島と長崎の原爆犠牲者への集合的責任の取り方であり、それを日本人の真の倫理と規範とするべきだ、という考えが大きな主題である。この考えは福島の原発事故後、2011年6月にバルセロナで行われたスピーチで発表されて大きく報道されたが、既に1997年刊のエッセイ集『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に同じ主張が書かれていると加藤氏は指摘している。長年の問題意識なのである。
 日本の原子力政策で損なわれてしまった倫理や規範の再生を目指す新しい物語の創造、これが村上春樹の大きな主題である。
 バルセロナでの「非現実的な夢想家として」と題するこのスピーチで、村上春樹は広島の慰霊碑に刻まれている「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」の言葉を素晴らしいと称え、「核という圧倒的な力の脅威の前では、私たち全員が被害者ですし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、私たちはすべて加害者でもあります。」(引用はNHK科学文化部のブログによる)と訴える。
 広島の慰霊碑に刻まれている言葉はあまりにも有名で、「過ち」の主語が不明だということで多くの論者の批判を受けてきた。ただこの主語のなさが、かえって村上春樹歴史認識のありように適合するのだろう。上の引用文にあるように、日本の戦争責任やアメリカの空前の戦争犯罪という問題を超えて、村上春樹の問題意識は、核エネルギーの利用という形で小さな太陽をこの地上に生み出してしまった人類全体の大罪に向かっている。
 だが直接的には、戦争責任に対する戦後日本人の無責任さと東アジア諸国民への贖罪意識が村上春樹の主たる関心事なのだろう。これについては、『村上春樹河合隼雄に会いにいく』でも、2014年11月の毎日新聞のインタビューでも、繰り返し強調されている。
 この大きな主題を持った新しい物語はいまだ書かれていない。『1Q84』BOOK3(2010年)刊行後、村上春樹の小説作品は長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)と短編集『女のいない男たち』(2014年)にとどまる。
 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、共同体から拒絶されてしまい、「人格のなかに他人を阻む疎隔帯のようなもの」を抱え込んでしまった主人公の回復の物語である。

 『女のいない男たち』については、直接作者の言葉を引用しよう。インタビューで次のように語っている。

 

 ここでは「孤絶」が一つのテーマになっています。女の人に去られた男の話が中心ですが、具体的な女性というよりは「自分にとって必須なもの」が欠如し消滅し、孤絶感を抱え込むことの表象だと思っています。若い時の孤独はあとで埋め直したり取り戻したりできるけど、ある年齢以上になると、孤独は「孤絶」に近いものになる。そういう風景みたいなものを書いてみたかった。(毎日新聞2014年11月3日朝刊)

 

 人に心を開けず孤絶感を抱えた心の悲哀や救いへの祈りが、加藤氏のいう小さな主題である。
 村上春樹の創作活動は大きな主題の前でしばしとどまっているが、このことについて加藤氏は次のように書く。

 

 しかし、彼は、私の考えでは、つねに自分の無意識の闇に見つかる「小さな主題」を下方に掘って進むことで深く「大きな主題」にいたる、夏目漱石型の小説家である。漱石は生涯、男女の三角関係という「小さな主題」から入り、人間に通有の深く「大きな主題」にいたるという方法を手放さなかった。(p.237~238)

 

 『女のいない男たち』について私見を付言すれば、収められた6つの短編は玉石混交である。『ドライブ・マイ・カー』の文章のドライブ感はさすがで、巻頭を飾るにふさわしい。脇役の女性「みさき」の存在感がいい。『イエスタディ』では、完璧な標準語を話す芦屋出身の「僕」と完璧な関西弁を話す田園調布出身の「木樽」の言葉づかいが、それぞれの心の小さな闇を垣間見せていて、人物に立体感を与えている。「木樽」の悲しみがユーモラスな筆致で描かれている佳品である。『独立器官』は作家の無意識の闇から出てきた作品とは思えない。頭をひねって設計したような人物とその物語はつまらない。図式的で平板な紙芝居を見るような世界だった。
 と、色々あるのだが、加藤氏の指摘するとおり、『木野』という題の短編がこの1冊のなかで傑出している。加藤氏の言葉を借りれば、「そこで村上は前作(引用者注:『色彩を持たない…』)と同じ「小さな主題」に引きずられたまま、なおそれを手放さずに、息をとめ、水中深く沈んでいこうとしている」(p.247)のである。
 『木野』には、村上春樹作品でおなじみの「柳の木」や「猫」が効果的に配され、そして大小2人組の男(俗物)も「まいどぉ」とばかりに登場してくる。

 路地奥の目立たない場所で小さなバーを経営する「木野」は、「真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった」(作品中の言葉)中年男である。その虚ろな場所に「秘密めいた蛇たち」が侵入してきて、「猫」は消え去る。

 「木野」を導くのは謎の常連客で、「土地の精」(加藤氏の言葉)のような「カミタ」という男である。「木野」は破滅の淵に追い込まれながらも、再生の予感をかすかに漂わせて、この物語は閉じられる。
 『木野』には「大きな主題」につながるかもしれない小さな小さな芽生えの予感がある。「柳の木」「猫」「蛇」「カミタ」などの配置は、村上春樹の心の深奥にあるだろうと思われる、日本を含む東アジアの文化の土壌への尊敬から出てきているように私には思われる。今しばらく沈潜し、その水脈にたどり着けるのかどうかは、まだ誰にもわからない。

 

 村上春樹の次の大作がどのような世界を描き出すのか。まさか、私が数百年先の世界に夢想したような「通路」の一端を探し当てるのではあるまいな。
(了)