月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

鳥越俊太郎騒動から考えること

【はじめに】
 この原稿は7月26日にほぼ書き上げていた。都知事選の開票を見てから若干加筆してアップする心づもりだった。そして今加筆している次第である。午後8時ちょうどに、出口調査小池百合子候補に当確が出た。鳥越俊太郎候補は惜敗ではなく、惨敗の色が濃厚である。
 この原稿をアップすることに、先程やや迷いが生じた。「惨敗」とは得票数のことだけをいっているのではない。候補のあまりもの無能さが晒されたことに加え、10数年前のスキャンダル記事にまみれて、鳥越俊太郎像が地に落ちたことをいっているのだ。水に落ちた犬を叩くようなことはしたくない。
 まして私はもうずっと前から週刊文春週刊新潮のゴシップ記事を苦々しく思ってきたのだ。あらかじめ設定したストーリーに即して、ときには捏造すれすれに対象となる人物をスキャンダルに落とし込んでいく。大衆の嫉妬心という劣情を刺激しながら、偶像を地に落とそうとする。彼らの取材法や編集法は卑劣である。大出版社を敵にまわすと仕事生命にもかかわりかねない芸能人は泣き寝入りするしかないこともあろう。ペンの卑劣な暴力だ。
 私はもう長年これらの週刊誌を手にしていないので、鳥越氏をめぐる今回のスキャンダル記事も新聞広告でしか知らない。記事内容の真偽については判断する立場にない。鳥越氏を擁護する気などさらさらないが、イエロージャーナリズムの尻馬に乗って人を叩くような合唱に参加するつもりもない。
 だが、スキャンダル記事が出る前から、既に浮動層は鳥越氏から急速に離れつつあった。告示日直後には鳥越氏の人気が高く、楽勝かとも思われていたが、最初のスキャンダル記事が明るみに出た20日夕刻(雑誌の公式発売日は21日朝)の前には、鳥越氏への支持率は既に2位に後退しており、翌週には3位にまで転落した。スキャンダル記事に関わりなく、有権者は鳥越氏の不適格さを見抜きつつあったのだ。
 私は、7月13日のツイッターにも記したように、その時点で鳥越氏を痛々しく思っていた。だが今回の騒動は、鳥越氏一個人の資質の問題にとどまらない。
 このような人物がなぜ長年TV界で、あたかも知識人であるかのように扱われ人気を得てきたのか。なぜ四党はこのような人物を統一候補として担いだのか。選挙が終わった今、批判を向けるべき論点はこの二つだろう。それは都知事選が終わった今こそ整理しておくべきことだと考える。このような観点から、私は迷いをふっきって、用意していた原稿をアップすることにした。
 そのうえで、鳥越氏個人への批判もまったく遠慮しないこととする。公職選挙の候補者は公人だからである。

 

【第一の論点】
 今の60~70歳代の人たち(注・私も同世代だ)の一部によく見られる、ファッションとして身に着けた左翼的ポーズにまず目を向けてみよう。「反安倍の暗い情念」などというものではない。反権力の装いをかっこいいファッションだと若い頃から思ってきた人たちの一人が鳥越氏なのだろう。
 以前も別の拙文で一部引用したことがあるのだが、村上春樹ノルウェイの森』(1987年)の登場人物・緑が次のように語っている。舞台は1968年の大学キャンパスである。今回の引用は少し長めになるが、60~70歳代の少なからぬ人たちの今現在の言動をもたらしている、精神の原型をうまく描いている文章だ。村上春樹の名文をとくと味わってもらいたい。

 

「あのね、私、大学に入ったときフォークの関係のクラブに入ったの。唄を唄いたかったから。それがひどいインチキな奴らの揃ってるところでね、今思い出してもゾッとするわよ。そこに入るとね、まずマルクスを読ませられるの。何ページから何ページまで読んでこいってね。フォーク・ソングとは社会とラディカルにかかわりあわねばならぬものであって・・・・・・なんて演説があってね。で、まあ仕方ないから私一所懸命マルクス読んだわよ、家に帰って。でも何がなんだか全然わかんないの、仮定法以上に。三ページで放りだしちゃったわ。それで次の週のミーティングで、読んだけど何もわかりませんでした、ハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識がないだの、社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわよ。私はただ文章が理解できなかったって言っただけなのに、そんなのひどいと思わない?」
「ふむ」と僕は言った。
「ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかったような顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに質問したの。『その帝国主義的搾取って何のことですか? 東インド会社と何か関係あるんですか?』とか『産学協同体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか?』とかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?」
「信じられる」
「そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてるんだお前? これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんなに頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中支えてるのは庶民だし、搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉ふりまわして何が革命よ。何が社会変革よ! 私だってね、世の中良くしたいと思うわよ。もし誰かが本当に搾取されているのならそれはやめさせなくちゃいけないと思うわよ。だからこそ質問するわけじゃない。そうでしょ?」
「そうだね」
「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。(後略)」

 

 当時は、身の危険を顧みず過激な暴力闘争に走るセクト所属の学生たちも少なからずいたが、それとは別にいわゆる一般学生の過半が、程度の差こそあれ、左翼気分に浸っていた。もちろん意識的な反左翼の学生もいたが、少数で、変人扱いをされることが多かった。上に引用したフォーク・ソング・クラブの先輩たちの姿は、当時どこにでもいた一般学生のそれである。他方、己の存在をかけて活動に打ち込んで ――それが正しいこととは言わないが―― 体に、心に、簡単には癒えない深い傷を負った者も少なくない。フォーク・ソング・クラブの緑さんの先輩たちはけっして傷つかない安全な場所でかっこをつけていただけだから、社会人になっても、学生時代を左翼気分で過ごしたことが懐かしい思い出となり、ある者にとってはそれが誇らしい思い出となり、酒の席で武勇伝を語ったりするのだ。
 鳥越俊太郎氏は、上のフォーク・ソング・クラブの学生たちよりは少し年上で、60年安保の政治の季節に大学生であった世代の人である。1970年前後のいわゆる全共闘時代の学生たちと60年安保期の学生たちとでは、左翼運動に関する感覚に色々違いはあるのだが、その違いについてここで語っても意味はなかろう。一般学生の「何となく左翼気分」は共有しているのである。
 大学(短大を含む)進学率は、鳥越氏と同世代の1960年で10%、緑さんと同世代の70年で24%程度である(現在は50%強)。18歳で就職する者が同世代の大半であった。同世代全体を見れば、その多数は、フォーク・ソング・クラブで左翼ごっこをすることもなく、地に足の着いた生活感を身につけていった。もちろん色々な人がいるのであって、組合活動等を通じて左翼運動に身を投じていた人たちもいた。
 再び「何となく左翼気分」の大学生に目を向けてみよう。緑さんの言葉を借りると「髪の毛短くして三菱商事だのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職し」(一語略)た若者たちはいつまでも左翼気分でいられるわけもなく、実生活のなかで揉まれ、選挙では自民党に投票するようにもなった。だが三つ子の魂は心の根っこに息づいていて、豊かさへの指向とあわせて護憲意識も強く持ち続けていた。あるいは「改革」のスローガンがお気に入りで、小泉内閣の登場には大喜びだった。「自民党をぶっ壊す」と大見えを切る小泉純一郎首相に喝采を送ったり、日本の外交を無茶苦茶にしかねなかった田中真紀子外相が妄言や妄動を繰り返すたびに、まるで身内を見るように目を細めて愛おしそうに彼女への賛辞を語ったりしていた。退職した今は、若い頃への郷愁もあるのか、「アベ政治を許さない」という流行りのポスターを掲げていたりする。例えばの話だ。個々には色々な人がいる。
 「三菱商事だのIBMだの富士銀行だのに」ではなく、マスコミ界や教育界に進んだ者のなかには、「何となく左翼気分」を何の屈折もなく学生時代のままに持ち続けた人たちが多かった。団塊の世代プラスマイナス概ね10年ぐらいの世代でマスコミ界に就職した者たちは、1980年代、90年代、ゼロ年代のTV各局の左傾化を推進してきた。彼らの多くは既に第一線を退いているが、その路線は次の世代にしっかりと継承されている。
 その突端で花を咲かせたのが、例えば鳥越俊太郎氏のようなTVスターだといえる。ただの駒にすぎないのだろうが。
 私が初めてTVで鳥越俊太郎氏を見たのは、20年ぐらい前になるだろうか、氏がキャスターを務めていた『ザ・スクープ』という番組で、住宅地域にある高圧送電線が周辺住民に及ぼす健康被害への心配を特集したときだった。不動産関連の仕事上の関心から録画して観たのだ。番組内容はほとんど覚えてない。勉強になったという印象は残っている。キャスターの鳥越氏にも好印象を持ったように思う。
 その後氏の出演番組を見る機会はほとんどなかった。何かの拍子にチラ見して、反権力姿勢からの紋切り型コメントを語る姿に出くわしたときなどに、発言内容の奥行きのなさにうんざりすることがときどきあった程度だ。もっともらしい語り口につられて付和雷同してしまう視聴者も多いのだろうと思ったが、どうせTVなんてその程度のものだという諦めの気持ちでやり過ごした。
 何だこの人は! と思ったのは、2014年8月NHK総合TVの討論番組で鳥越氏の出鱈目さを見せつけられたときだった。私はこのときリアルタイムで番組の一部始終をじっくりと視聴していたのだが、論者(鳥越氏)の不誠実さに唖然とした。今の発言が数分前の自分の発言を否定していることにすら気がつかないのだ。6人の論客による討論番組で、このときの鳥越氏の支離滅裂ぶりについては、討論参加者の1人である政治学者・岩田温氏が著書『平和の敵 偽りの立憲主義』(2015年)の23~27頁で詳しく再現しているので、ここでは繰り返さない。さわりの部分の動画はYouTube にもアップされている。『日本にどこの国が攻めるんですか』で検索すれば簡単に見つかる。
具体的描写はそれらに譲るが、私がここで言いたいのは、鳥越俊太郎氏に思想などないということだ。左翼だろうが何翼だろうが、誠実さがあるならば、歳月を経て培ってきたその人自身の思想というものがあろう。鳥越氏の言葉は、自分の血肉化した思想から湧き起こってくるものではなく、その場その場での巧言でしかない。巧言令色鮮し仁、である。
 「他者」との討論という場では惨めな正体をさらけ出してしまうのだが、鳥越氏が日頃TVで発言する場には「他者」がいない。キャスターやコメンテーターとして一方的に発言しているだけである。氏の風貌やもっともらしい語り口が、ある種の視聴者には知的に見えるのだろうか。活字を読まずTV以外に情報源を持たない人たちのなかには、鳥越俊太郎氏を日本の最高の知性の1人だと思っている者も少なくないようだ。カニ蒲を最高級のカニだと思い込んで有難がっているようなものである。
 TVに登場するコメンテーター等がみんな偽知識人だなどと無茶なことを言うつもりは毛頭ない。本業の分野で立派な業績をあげている学者も少なくない。しかし、インテリ風味の味付けを施したキャスターやコメンテーターの内には、TVの画面の中だけでしか通用しない人も結構いるのである。鳥越俊太郎氏はそんな1人である。
 1980年代頃より進行してきたTV各局の左傾化は軽薄化と裏腹である。制作者にとっては、例えば鳥越氏のように、見せかけと語り口だけをもっともらしくして、反権力ポーズの無内容な言辞で番組進行上の時間を費やしてくれればそれで充分なのである。すべてのTV番組がそうだとはいわないが、視聴者に考える機会を提供し議論の質を深めることよりも、逆に大衆の思考を停止せしめたり、あるいは低い方へ低い方へと誘導しようとする報道・情報番組が少なからずある。そういう番組でかっこだけつけた「何となく左翼気分」の「知識人風味」がTV画面限定で重用され、その人がスターになってしまったりするのだ。
 たいていの道具は、それを持つ人の使いこなす能力や道徳次第で、人々の生活の向上に役立つこともある反面、人々を不幸にする凶器になる可能性も秘めている。TVは大変有用なメディアになり得る可能性を持っているが、反面、愚民化を促進する凶器にもなり得るのである。
 鳥越氏が都知事選への出馬を表明(12日)した直後、まだ告示(14日)前で報道規制がなかった期間に、他のTVキャスターやコメンテーター等々の業界仲間から、鳥越氏への賛辞やエールが相次いだ。私はそれらの番組を直接見ていないが、ネット上の記事や動画で知った。
 鳥越氏自身、TV界のスターの地位を築いたことで、自分がひとかどのオピニオンリーダーであるかのような錯覚に陥っており、また業界仲間もその人を喝采とともに送り出したのである。政策を何も考えず、従って語らない候補者として! 「知らないことを『知りません』って言えちゃうところも結構すごいですね」(安藤優子キャスターのTVでの発言。12日)、「勉強してないと正直に言えることがすごい」(テリー伊藤コメンテーターのTVでの発言。13日)などの賛辞もあった。公職の選挙を舐めてるのか!
 TV画面の外に出ると、そこは「他者」がひしめいている世界である。まして選挙となると、「他者」(有権者)への説得、「他者」(他候補)との討論が必要となることはいうまでもない。にもかかわらず、鳥越候補は数少ない演説で「1に憲法、2に平和、3に非核」とか「安倍政権を倒す」とか叫ぶほかには、「都政など3日勉強してすべて分かった」という付け焼刃の「政策(?)」をとってつけたように語るだけであった。「保育所の待機児童をゼロに」と言っても、それに反対する人などいないだろう。具体的にどうするかが政策なのである。大島へ出向くと、大島限定で消費税率を下げるなどと、思いつきだけで無責任なことを言う。あるいはまた、3日勉強したのに「介護離職」という語の意味を理解していないことがバレバレで、恥をかいたりする始末であった。
 他候補との討論会の企画は二度(フジTV・ニコ生)もドタキャンで逃げ出し、フジTVの場合はそのため番組企画が急遽取り止めとなって、他候補がTVで政策を訴える貴重な機会をも奪ってしまった。鳥越候補は「他者」との討論に耐えられないレベルなのである。辻褄合わせのつもりかバラエティ番組には出演し、他候補に無意味な因縁をつけて激高して見せたりしていた。
 これほどまでにレベルが低く、公職の選挙を愚弄するような有力候補者がかつていただろうか。
 TVでは告示以後は規制のためこのような醜態への批判的報道はなく、いやそれどころか、告示日以前は前述のように鳥越氏にエールを贈っていたのである。新聞各紙は、産経だけを例外として、12日の出馬会見の報道で当然疑問を投げかけるべき鳥越氏の態度につき、まずいところは隠蔽し美化するような編集を施して紙面をつくった。詳しくはネットマガジン「現代ビジネス」で、ジャーナリスト(元日経編集委員)・牧野洋氏の7月19日の配信記事『鳥越俊太郎氏の出馬会見を大手メディアはどう報じたか~「デジタルデバイド」を助長する報道界の悪しき慣行』を参照されたい。
 ネットで鳥越批判の声が渦巻いたのは当然の健全な反応である。私もまた告示日前後に、この馬鹿げた都知事選への怒りのツイートを連発した。そこには当然鳥越氏個人への批判も含まれたが、それ以上に私の関心はTVや四党(特に民進党)への批判に向かっていた。いくつか拾ってここに再掲してみよう。

 

無知の自覚は私生活レベルではある意味大切なのだが、それを知事立候補会見という公共の場で表明し、その姿勢を賞賛するタレントコメンテーターの妄言を垂れ流すTV局というのは醜悪なだけだろう。醜悪と思う人と追随する人、どちらが多いのだろう。(7月13日)

 

1.有力政党推薦の知事立候補者が会見の場で、個々の政策については「まだ考えてない。これから勉強する」を連発する。
2.メジャーなTV局の番組が、その候補者の会見態度をほめそやす。
こんな変な国は世界に一体いくつぐらいあるのだろうか。
1だけでも滅多にないだろうが、1+2となると…(13日)

 

ネットでは鳥越氏に対する批判が溢れているが、私は氏の姿を痛々しく思う。私の怒りは、政策を語る事もできないこんな愚昧な人物を担ぎ出した公党の責任に対してのものである。「TV界の人気者だから愚民たち喜ぶぜ」という都民を舐めた政治屋らの心根と、鳥越氏をもてはやす一部のTV局が許せない。(13日)

 

ここ四半世紀日本の民主主義がどんどん劣化してきている事は承知しているが、とうとう都知事選に政策を何も持たず従って当然語れない老人が公党4党の統一候補として登場してきた。現段階ではリードしているという。異様である。有名だからとかいい人そうだからとかで投票する人がどれ位いるのだろうか。(16日)

 

都政に対する責任感が皆無の候補者を担ぎ出した民進党幹部。彼らの大衆蔑視と裏腹の煽動体質を絶対に忘れないように! ここは特に重要である。試験に出るよ。(16日)

 

TV各局の多くは業界人の鳥越氏を応援するスタンスだから、今朝の報道2001の企画つぶしの卑劣な振舞いも、ほとんど伝えられることはないのだろう。TVだけを情報源としている善男善女は氏のそんな実像を知る由もなく、ダンディで知的で誠実そうな人じゃない? とか言って票を入れたりするのか。(17日)

 

民・共と鳥越某に愚弄されている東京都民は怒れ!(17日)

 

巣鴨で、鳥越陣営の都民をなめた態度には、さすがに聴衆から怒号が飛んだそうだ。朗報である。
東京都民よ、怒れ!(18日)

 

民進党内から岡田執行部批判の動き。やっと表に出て来た。民共野合への批判だけでなく、執行部政治屋たちの大衆蔑視と煽動体質にも切り込んでもらいたい。都知事選の惨状はその表れだ。国会審議への姿勢もそうだ。(21日)

 

 数えてみたら、7月13日から21日までの9日間で、都知事選関連のツイートを27件(人様のRTを含む)も発していた。日頃無口なツイッタラーとしては珍しい。怒っていたのだ。

 

【第二の論点】
 上のツイートにあるように、鳥越候補を担ぎ出した四党の責任は重大である。当初俳優の石田純一氏が出馬の可能性を表明したとき、岡田民進党代表は彼を四党統一候補にすることに乗り気だったという。昨年国会前の集会で反政権の(意味不明だったが)アジ演説をしたことと俳優としての知名度、この二点だけで岡田代表は乗り気になったのである。石田氏に都政への見識がないことは明らかだったが、岡田代表の頭の中にも都政への実質的な関心などまったくないことを表すエピソードである。さすがに党幹部のなかにこの案に強く反対する者があり、次いで党都連推薦の古賀茂明氏も見送られ(枝野幹事長が反対したそうだ)、急遽TVキャスター出身の民進党参議院議員当選者の仲介により鳥越氏に決定したと伝えられている。
 知名度と反権力のポーズがあればそれでいいのである。政策を真剣に考えて出馬を表明していた宇都宮健児氏は民進党共産党などから邪魔者扱いをされて、引きずり下ろされた。
 鳥越俊太郎氏を統一の推薦候補として担ぎ上げた四党の幹部たちには、都政に対する何の展望もなかった。「反安倍」のポーズが売り物で知名度・人気度抜群(と彼らは誤解した)の候補を押し立てさえすれば、大量の票を獲得できると読んだのだ。そこに見えるのは、彼らのあからさまな大衆蔑視の心根である。民主主義の中身を尊重する意識が彼らにあるのなら、政策を地道に考えていた候補を足蹴にして、頭の空っぽな人気(?)候補を政策なしに推薦したりしないだろう。
 私はけっして単純な民主主義礼賛者ではないけれど、こんなふうに民主主義を壊す政党指導者たちは、日本の近未来に害悪をもたらす存在だとしか思えない。都知事選は終わったが、この問題は存続する。
 かつて非武装中立などという空虚なスローガンを掲げ、一定の勢力を保ち、常に野党第一党の位置に安住していた社会党は、党名変更(社民党)を経て凋落し、今や風前の灯である。かつての社会党の政治家たちは政権運営の責任感やリアリズムなど持つ必要もなかったので、反権力のポーズと非現実的な主張を大衆に見せてさえおけばよかった。それで彼らのおいしい生活は安定的に維持できたのだ。もちろんなかにはイデオロギーを真摯に信じていた真面目な党員もいただろうが、多くは野党第一党の地位を安逸の場としていただけであった。
 社会党は凋落したが、社会党的な精神は今も政治の場に横溢している。社会党が凋落しても、それを支えてきた一定の数量を保った大衆の「戦後民主主義」擁護の意識が健在だからである。大衆のこの部分に迎合していれば、野党は、多少の変動はあっても、概ね一定の勢力を保ち続けられるのである。
 民進党のなかには、経済政策、外交政策、防衛政策等に、政治家としての責任感とリアリズムから真摯に取り組んでいる人たちも何人かいる。だが残念ながら、野党の地位に安住したがっているような政治家が党内の多数派である。彼らは旧社会党のような行動に傾き、上に記したような大衆の一部に迎合し、願わくはその大衆勢力を拡大せんと欲し、煽動する。
 戦後民主主義の評価について、国民の意見が分かれていてもよかろう。オープンマインドな議論が交わされるのならば、である。民進党多数派が近年の国会やその周辺でやってきたことは何だ。大衆の不安を煽り立てて議論の質を低下せしめてきただけではなかったか。その煽動体質の延長上に、今回の鳥越候補擁立という茶番劇もあったのだ。
 共産党イデオロギーを信奉する者たちの集団である。社会主義国家を過渡期の段階として共産主義社会へ移行するのが歴史の必然であるとするイデオロギーである。方便として当面は議会制民主主義を利用しようという戦術のもとに行動しているのであり、彼らの本質は全体主義者である。
 他の二党は論ずるに値しない。

 

【おわりに】
 都知事選は終わった。この騒動から露わになってきた問題は、今後も日本の民主主義の足を引っ張り続けるのかもしれない。だが楽観すれば、「何となく左翼気分」のインチキさや、民進党多数派の無責任さこそが露わになったのであり、都民のみならず国民がこの茶番劇の背景から多くを学ぶのであれば、それは幸いに転ずる茶番劇であったというべきであろう。
 今回の都知事選は、保守陣営の分裂選挙となり、民進党等の四党にとっては絶好のチャンスのはずだった。政策本位で宇都宮健児氏を統一候補にしていれば勝算が大いにあっただろう。そのチャンスをみすみす自分たちの手で潰してしまった四党幹部たちがどれほどに愚かな人たちであるか、その本質を四党支持者を含めて国民がしっかりと認識するのなら、日本の民主主義が健全さを取り戻す良い機会になるのかもしれない。すべては今後のことである。
(了)