月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

江藤淳雑感(3)

*** 目 次 ***

(1)

【とっちゃん坊や】

【昂然とした姿】

【適者生存】

(2)

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

【公への責任感】

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき日本の戦後民主主義

(3)

【閉された言語空間】

【親米と反米】

(4)

【平成の逸民】

【師弟】

【轟く雷鳴】

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 

(以下敬称はすべて省略する)

 

承前

【閉された言語空間】

 「戦後の日本をきわめて異常な状態にある国とながめざるを得なかった」江藤淳は、「この状態をいつまでもつづけるわけにはいかぬはずである」(前掲朝日新聞の文章の続き)と希望を持っていた。

 しかし昭和の時代が深まるにつれ、この異常な言語空間の頑迷さは一層硬化しつつあった。

 江藤は昭和53年から54年にかけて、敗戦直後の言論状況の調査から始め、占領中の「言論の自由」がいかなるものであったかについて考察した。

このなかで江藤は、ポツダム宣言の受諾について、無条件降伏をしたのは「全日本国軍隊」であって、日本国は条件つきの降伏だったと主張し、大きな論争が展開された。以上は『忘れたことと忘れさせられたこと』(昭和54年・文藝春秋)にまとめられた。

 この論争について小谷野敦は拙文冒頭に記した書『江藤淳大江健三郎』で、「意味不明な論争」だと書く。「要するに「無条件降伏」という語の定義の問題で、ポツダム宣言を無条件で受諾したら無条件降伏とも言えるのであり、論争自体がむなしい」という小谷野の指摘には、成る程と納得できる。

 にもかかわらず、有条件降伏説にこだわる江藤の心情に私は関心を持つ。自己卑下するなと、江藤は言いたかったのである。それは徹底した日本解体を実施したGHQに対する怒りから発したものだ。占領下での実質GHQによる憲法制定は不法行為であったにもにもかかわらず、占領終了後も後生大事にその憲法を拝み続ける日本人への哀しみである。江藤の怒りと哀しみはいつも一体である。

 ウイルソン研究所の派遣研究員としてワシントンDCに滞在していた昭和55年に『一九四六年憲法 ―その拘束』(文藝春秋)を著した江藤は、メリーランド大学付属の図書館と合衆国国立公文文書館分室にも通い詰め、占領軍当局の実施した検閲の実体をつぶさに調査した。その結果著された『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(初出昭和57~61年、単行本は平成元年・文藝春秋)は江藤淳の数多い著作の中でも最も話題を呼んだうちのひとつである。

 この書は、「私たちは、自分が信じていると信じるものを、本当に信じているのだろうか?」という問いかけで始まり、「私は、自分たちを閉じ込め、拘束しているこの虚構の正体を、知りたいと思った」(同書第一部第一章)という問題意識のもとに成し遂げられた詳細な実証研究の成果である。占領終了後も日本が自縛に陥ったまま、歳月を経るにつれその虚構を硬化させている病根に迫ろうとしたものである。

 被検閲者にタブーを伝染させていくCCD(民間検閲支体)独特の有効なシステムと、CI&E(民間情報教育局)がメディアや学校教育を通じて浸透せしめるWGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム…戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)が車の両輪となり、敗戦国民日本人へのマインドコントロールは完璧にまで達成された。WGIPの存在は江藤によって初めて日本人の前に明らかにされた。検閲は、その検閲の存在それ自体を隠蔽する巧妙なシステムの中で行なわれた。これも江藤によって白日のもとにさらされた。

 この書は論壇で多くの批判を受けた。資料の扱い方等実証性に問題があるとする意見、牽強付会の江藤のプロパガンダだとする意見、あるいは江藤のアメリカに対する甘えの上に立った馴れ合い的な陰謀論であるとする意見等々である。

 その適否を判断する能力は私にはない。占領終了後もタブーを相対化しようとしない日本人への江藤のメッセージは受け止めるべきだろうと思うのみである。

 中国・韓国・北朝鮮・(場合によってはロシアも)に包囲されるなかで、アメリカの核の傘の欺瞞も明らかになってきている今日、日本の死活に関わるシーレーンである南シナ海を中国が領海化しようとして動き始めている今日、その今日でもなお、日本では安全保障政策について考えること自体に道徳的反発をする国民が過半である。憲法9条を守れと言う。

 TV画面の中でコメンテーターは、安全保障政策に対置して「日本は文化大国たれ」と与太る。なぜこの二つが対置されるべき概念なのか理解に苦しむが、TVの前の愚民たちは唱和して、「みんな仲良くするのが最大の安全保障なのだ」などと言う。良い子の学級会だ。

 閉された言語空間で受けたマインドコントロールは解けないままなのである。江藤が昭和39年に「きわめて異常な国」と嘆きつつもその克服に希望を繋いだ言語空間は、昭和の深化とともに硬化し、今や液状化に転じて腐臭を放っている。

 小谷野は『江藤淳大江健三郎』で、「(前略)押し付けだろうがなかろうが、九条のような現実に適合していない条項は改めるのが当然のことで、改憲派の、押し付けだからという理由づけと、護憲派の、日本人はそれを受け入れたとか選び直したとかいった論争はまことにバカバカしい、ことがらの本質を誤ったものである」と書いている。しかし「現実に適合していない」その現実を見ようとしない異様な言語空間をもたらした歴史的経緯というものはあるのであり、憲法の制定過程を含む占領政策及び占領終了後に日本が辿った軌跡を踏まえて考えることは必要であろう。

 

【親米と反米】

 小谷野は『江藤淳大江健三郎』で、江藤の政治思想にある反米姿勢に疑問を投げかけている。地政学上、日本はアメリカとの同盟なくしてやっていけないはずだ、という趣旨である。

 そこで以下に、日本がおかれてきた、親米と反米がもつれたややこしい事情について考えてみたい。

 日本が講和条約発効後も占領憲法(特に9条2項)を押し戴いてきたのは、何も日本国が崇高な精神を持っていたからではない。金儲けがしたかったのである。

 金儲けは悪いことではないし、戦災で廃墟となった日本を復興させていくために、経済の再建は最重要事のひとつであった。講和条約発効後つまり日本の一応の独立後も、憲法9条2項の規定を逆用して国の防衛はアメリカに依存し、経済再建に全力を注ぐという吉田茂内閣の方針は、目先の国益だけについていえば賢明な策であったろう。だが、吉田茂に20年、30年先を見通す見識はなかった。後年政界引退後に吉田は、国防問題をタブーとしてきたことは誤りだったとして反省の発言をしている(昭和39年、首相当時の吉田の軍事顧問を務めていた辰巳栄一元陸軍中将への発言)。

 講和条約締結前後の世論はむしろ日本の再軍備を容認していた。例えば昭和26年9月20日の朝日新聞が発表した世論調査を見ると、日本の再軍備に「賛成71%・反対16%・わからない13%」という結果となっている(竹内洋『革新幻想の戦後史』平成23年・中央公論新社)。

 しかし日本経済の高度成長が始まり、人々が物質的豊かさを享受するようになって、より豊かな生活へと欲望が肥大していくにつれ、国防をアメリカに依存している心地よさが社会を覆ってきた。「平和憲法」を理想化し始めたのだ。WGIPに教わったままに邪悪な過去を反省し、「平和と民主主義」の正義を掲げるその旗の裏には、旺盛な物質的欲望の絵が描かれていた。

 だいたい「平和」と「民主主義」をワンセットとして掲げる発想自体が、その「正義」の軽薄さを表していた。民主主義に導かれて遂行される戦争はいくらでもあるのだ。

昭和32年2月に政権を掌握した岸信介は、日本の自主独立の理想とそのためのグランドストラテジーを持った政治家だった。しかしその第一歩である日米安保条約の改定に漕ぎつけただけで、岸の志は頓挫してしまう。

 昭和35年の反安保運動は戦後最大の国民運動だったが、国民のほとんどは安保条約改定の意味を理解していなかった。日米開戦当時の商工大臣であった責任を問われA級戦犯容疑(後に不起訴)で巣鴨に拘留されていた岸に悪の面影を読み取った大衆は、衆議院での強行採決を見て、一挙に反岸の感情を爆発させたのだ。そこには一種の反米カタルシスも含まれていた。

 江藤淳石原慎太郎も「若い日本の会」を結成し、反岸の活動に奔走した。

 全学連で反安保闘争を闘った者たちも、西部邁が『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(昭和61年・文藝春秋)その他の著書で繰り返し書いているように、新条約と国際政治及び国際軍事の関係については無知でさらには無関心だった。

(注)なお『江藤淳大江健三郎』のp.145に、「全学連から分かれた急進的革命組織「ブント」に属して活動していたのが、西部邁柄谷行人である」とあるが、この記述は正しくない。西部らブントは全学連主流派を形成したのであり、反主流派が民青日本共産党の下部組織)だった。同頁で書かれている国会突入事件は主流派、ハガチ―事件は反主流派が主導した。

 

 岸首相の意図は、旧安保条約の不平等性を解消し、アメリカの日本防衛義務を規定する双務的な条約に改定しようとするものだった。そして次の段階で憲法改正へと進み、日米同盟堅持のもと、日本の主権回復を図ろうとしていた(憲法9条2項は主権制限条項である)。この第二段階は未だ政治日程に上っていなかったが、新安保条約の参議院での自然成立を見届けただけで、岸内閣は総辞職を余儀なくされた。

 主権制限条項を持つ憲法を保持したままでの日米安保条約ということになると、自主防衛ができない日本はひたすらアメリカにしがみつき、生殺与奪の権を握られた属国として生きのびるしかない。

 日本の国民は、戦後最大の国民運動によって、日本の対米従属の永続化をもたらしてしまったのだ。この大衆感情の爆発を見た以後の代々の政権は、憲法改正論議をタブーとして事実上封印してしまったのだから。

 東西冷戦構造の世界では、日本はアメリカの極東戦略の重要基地としての役割を果たし、アメリカの核の傘の有効性が未だ東側に信じられていたこともあって、日本は安全を享受し経済成長にいそしむことができた。日本国民の多くは、憲法9条のおかげで平和なのだという迷信を信じ込み、奴隷の平和をむさぼっていた。9条は世界に誇るべき宝だなどというのは、冗談でなければ、愚かで卑しい精神が生み出したスローガンだ。

 冷戦終結後、世界のパラダイムが大きく転換したときは、日本に見識と覚悟さえあれば、主権回復をアメリカに主張する最後のチャンスだった。

冷戦終結直後から世界の一極支配に乗り出したアメリカのホワイトハウス国防総省は、日本を「潜在的な敵性国」と認定し、日本に対し封じ込め政策を実施することを決定した。1992年(平成4年)に作成されたその機密文書は、何者かによってニューヨークタイムズワシントンポストにリークされた。

 ならば日本は、冷戦期にアメリカに忠実に寄与してきた貢献を主張し、将来の東アジアの安定のために果たす自立した日本の役割を説くべきであった。アメリカは、東アジアにおける日本の自立を阻止する政策を戦前以来今日に至るまで一貫して採り続けているのだが、事の成否はともかく、新たな日米関係のあり方と同盟の必要性をこのとき強く主張すべきであった。しかし日本の政治にそのような見識も覚悟もなく、一方的に「潜在的な敵性国」と烙印を押されたまま、属国であり続け、経済的にも大きく収奪されてきたのである。

 2年間のプリンストン生活の終り近くに、江藤は「私はこの国(引用者注:アメリカ)と不幸な恋愛をするくらいなら、親しい友人にとどまっていたい」(前掲『国家・個人・言葉』)と書いている。

 尖閣をめぐって中国との摩擦が顕在化するたびに、日本はアメリカの反応を窺ってはらはらしている。そして「尖閣諸島は日本の施政下にあり、安保条約の適用対象である」というリップサービスをしてもらうつど、「ああ、あの人は今も私のことが好きなんだ」と胸を撫でおろしている。これを「不幸な恋愛」というのだ。

 尖閣が日本の施政下にあることは認めるが領有権に関する双方の主張については中立の態度をとるというアメリカのスタンスには、中国が武力侵攻で尖閣を施政下におけばもはや安保条約の適用対象たり得ないという含意がある。尖閣への安保適用を明記した2014年(平成26年)の日米共同声明に併せた共同会見で、オバマ大統領は「(日米安全保障条約)第5条は尖閣諸島を含む日本の施政下にあるすべての領域に適用されます」と言明しているが、第5条には議会の承認がなければアメリカは武力行使をしないという含意がある。

 日米安保条約は、アメリカが善意で属国日本を守るためにあるものではない。アメリカにもいろいろ都合があるのだ。

 かつて日本の軍国主義復活と日米安保条約の存在に強い懸念を示した周恩来総理にキッシンジャー大統領補佐官は、そんな心配は無用であると、噛んで含めるように説明した。「強い日本は総理が挙げられたような傾向を潜在的に持っています。(中略)実際、在日米軍パラドックスを作り出しています。なぜならば、我々と日本との防衛関係が日本に侵略的な政策を追求させなくしているからです。(中略)ですから、総理、日本に関しては、貴国の利益と我々の利益とはとても似通っています。どちらも日本が大々的に再軍備した姿を見たくありません。そこにある我々の基地は純粋に防衛的なもので彼ら自身の再武装を先送りにすることができます。」

周恩来キッシンジャー第1回会談・1971年、『周恩来 キッシンジャー機密会談録』・岩波書店2004年)

(注)この会談録は30年間の機密保持期間を経た後の2001年に公開されたものである。ほぼ全容が明らかになったとはいえ、いまだ開示されていない部分が若干ある。そこに尖閣に関する密約が隠されているのだろう、というのが私の勝手な憶測である。

 

 いわゆる「安保=瓶のふた」論である。岸信介の志は大きく曲げられてしまった。

 日本にはアメリカを頼みとする親米派の政治家、論客、メディア等が多い一方、日本の自立を阻止し収奪しかつ自己の世界戦略のために利用ばかりするアメリカへの反発に燃える反米保守の論客たちもいる。

 現実に日本はもうアメリカなしにはやっていけない状況に陥っているのだが、いずれ中期的にはアメリカが国力の衰えによってアジアから手を引かざるを得なくなる事態も不可避である。中国がしばしば提案しているような中米による太平洋分割案も近未来の現実である。

 日本は名目上の独立を得て以来63年間のあいだに、自主独立への道に踏み出すチャンスが三度あった。そのチャンスをいずれも「自主的に」見送りあるいは投げ棄て、アメリカにしがみついてきたのだ。もうこの先はどうしようもない。

 西部邁に代表される反米保守の思想は、アメリカなしにはやっていけない現実の前に無力である。非武装中立論のような空想的平和主義の対極にありながら、反米保守もまた空想的である。しかしその思想は、私たちが陥ってしまったアポリアについて顧みる機会は与えてくれるのである。それだけである。

 江藤は『日米戦争は終わっていない 宿命の対決―その現在、過去、未来』(ネスコブックス・昭和61年、追補新版は文藝春秋・昭和62年)で、「日本が日本本土に対する脅威に対して、独自に対処する防衛力をもつことを容認しない」と明言しているアメリカに対し、「日米の終わりなき戦い」を意識している。しかし同時に平成8年の橋本・クリントン会談の際には、『日米同盟―新しい意味付け』(平成8年『保守とは何か』・文藝春秋所収)で日米同盟の深化を無邪気に喜んでいるのである。

 小谷野が疑問を投げかけたように、江藤には親米と反米のややこしい心理のもつれがあるのであり、それはけして江藤ひとりの問題ではないはずだ。

 

↓(4)へ続く