読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

煽動報道のいやらしさ             ― 核兵器に関する憲法解釈をめぐって

 先週3月18日の参議院予算委員会民主党白眞勲議員が核兵器の使用は憲法上認められるかという質問をした。これに対し横畠裕介内閣法制局長官は、国内法上及び国際法上の制約を強調し、核兵器の使用は現実の問題として考えられないという趣旨で答えたが、白議員の「憲法上の問題として」という再三の追及によって、「憲法上、あらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているというふうには考えていない」と答弁した。
 これは従来の政府の公式見解に即した答弁であり、特に飛躍があるわけではない。
 だからだろう、この質疑応答を報じなかった全国紙もある。読売新聞は19日の朝刊で白議員の他の質問については小さく報じたが、上記の質疑については黙殺した。ニュース価値なしと判断するのもひとつの見識である。産経新聞は紙面では報じず、ネット版で小さく伝えるにとどめた。日経新聞は四面の小さな囲み記事の形で掲載したが、「(横畠長官は)見解を改めて示した」という表現で、けっして新たな見解ではないことを伝えている。毎日新聞朝日新聞は、これらに比べて扱いがやや大きいが、毎日新聞は五面、朝日新聞は四面の地味な記事である。毎日新聞は特に主観を交えずに、質疑応答の要点を淡々と簡潔に伝えている。他方朝日新聞の記事には、これは大問題だと言わんばかりの記者もしくは編集者の主観が込められている。さらに共同通信がこのニュースを配信し、多くの地方紙がそれを記事にした。社説で「核使用まで容認とは驚く」と憤った地方紙すらある(高知新聞)。TVは見ないので、ニュースショーやワイドショーなどがこれをどのように扱ったのかあるいは扱わなかったのかについては知らない。民放ラジオ各局は、一般に、共同通信から配信されるニュースを流すことが多い。
 菅義偉官房長官は同日の記者会見で「(核兵器使用は)あり得ない。法制局からは過去の答弁を踏まえて答弁したと報告を受けている」と語った(3月19日朝日新聞朝刊)。毎日新聞もこの官房長官の見解を添えて報じている。共同通信は第一報の配信のあと、別記事としてこの官房長官の発言を配信した。それを含めて記事にした地方紙(北海道新聞信濃毎日新聞等)もあるが、前者だけを報じ、後者を記事にしなかった地方紙が多くあった。
 朝日新聞の記事は、日本政府は非核三原則を国是としてきたのに、法制局長官が核使用について言及するのは「極めて異例だ」とし、安倍内閣が大きな飛躍をしたかのような書き振りである。共同通信は、朝日新聞同様、日本政府が非核三原則を国是としてきたのに「内閣法制局長官が核使用について公の場で言及するのは異例だ」と断じて記事を締めくくっている。
 朝日新聞共同通信は、故意か無知かは措くとしても、非核三原則憲法上の問題を混線させているのである。
 整理しておこう。
 政府は1978年3月の参議院予算委員会での真田秀夫内閣法制局長官の答弁及び同年4月同委員会での真田長官の補足説明による核兵器保有に関する憲法解釈を公式見解として今日まで維持してきた。
 ポイントは2つある。
 自衛のための必要最小限を超えない実力を保持することは憲法第9条第2項によっても禁止されておらず、この限界の範囲内にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは同項の禁ずるところではない。これが第一点である。
 政府は政策として非核三原則により核兵器を保有しないこととしており、また、法律上及び条約上においても、原子力基本法及び核兵器不拡散条約の規定によりその保有が禁止されているところであるが、これらのことと核兵器の保有に関する憲法9条の法解釈とはまったく別の問題である。これが第二点である。
 つづめていえば、非核三原則は政策及び法律と条約上の問題であり、憲法解釈としては9条2項が必要最小限の自衛権を認めている限りにおいて核兵器の保有も許容されるということである。
 さらに1982年4月の参議院予算委員会で、角田禮次郎法制局長官が野党議員の質問に対して、「(憲法解釈上は――引用者注)自衛のための必要最小限の範囲内に属する核兵器というものがもしありとすればそれは持ち得ると。ただし非核三原則というわが国の国是とも言うべき方針によって一切の核兵器は持たない、こういう政策的な選択をしている、これが正確な政府の見解でございます」と、ダメを押すかのような答弁をしている。
 これが政府の一貫した統一見解であり、民主党社民党連立政権下での政府もこの見解を継承していたはずだ。今回の横畠法制局長官の答弁もこの従来の見解に即したものである。SNSでモッブたちが騒いでいるような、安倍内閣が禁を破っていよいよその本性を剥き出しにしてきたという代物ではない。
 故意にか無知によるものか、政策上の問題と憲法解釈の問題を混線させてしまうのは、現実と憲法の間にねじれが存するがためである。
 ごく常識的な国語力をもって憲法第9条第2項を読めば、この条項が核兵器の保持を容認しているとは理解し難いであろう。詭弁の始まりは1954年に自衛隊の発足を受けた鳩山内閣による解釈改憲である。9条2項は自衛のための必要最小限の実力を保持することを禁止するものではないと読み直して、鳩山内閣自衛隊の設置を合憲とした。この解釈改憲の当然の延長上に、上記の核兵器に関する憲法解釈も位置しているのである。鳩山一郎を初代総裁に戴いた自由民主党憲法改正を党是として掲げたが、実現できないまま今日に至り、詭弁の色濃い解釈改憲の積み重ねは、憲法と現実のねじれを化け物のようにいびつなものにしてしまった。
 この憲法解釈のもとで1978年の内閣法制局長官の答弁がなされ、以来歴代内閣によって受け継がれてきた政府のこの統一見解に即して、先週、民主党議員の質問に対して横畠法制局長官が答弁したまでのことである。
 白議員や朝日新聞共同通信は、核「保有」にとどまらず核「使用」にまで言及したのだから、新たに危険なステップに踏み込んだのだと言いたいのだろう。
 歴代の法制局長官が強調しているように、政策の問題ではなく法理論上の問題として、答弁しているのである。「使用」の可能性を完全に封じたうえでの「保有」など冗談にしかならないではないか。自衛の手段として核兵器の「保有」を認めるのは抑止力のためであり、「使用」の可能性を持たない「保有」など何の抑止力にもならないことはいうまでもない。横畠法制局長官が先週新たなステップに踏み込んだのではなく、1978年の法制局長官答弁の時点で既に「使用の可能性」が論理上当然に含意されていると解すべきである。
 先週3月18日の参議院予算委員会の動画を確かめれば分かることだが、横畠法制局長官が、海外での武器使用は国内法、国際法上の制約から我が国の防衛のための必要最小限にとどめるべきであり、核兵器の使用は現実にあり得ないと答えているのに、「憲法上の問題を訊いているのだ」と白議員が食い下がったため、「憲法上禁止されているとは考えていない」と答弁したのが真相である。
 白議員は昨年8月参議院平和安全法制特別委員会で、やはり横畠法制局長官に質問をし、核兵器の保有について「憲法上、保有してはならないということではない」との答弁を引き出している。1978年以来の公式見解を繰り返しただけなのだが、白議員はこの答弁を引き出したことを自分の手柄だと思い違いをしているような口振りであった。そして今回さらに「保有」から「使用」へ一段エスカレート(?)した答弁を引き出すことを目的としたのである。何のため? 「安保法制の実施で危険な道を暴走する安倍内閣」という印象を大衆にばらまくためである。
 安全保障政策について真剣な議論を積み重ねていくなかで、「核兵器憲法」の問題に行き当たったのなら、それは実のある国会論戦の一環として理解できる。だが、この日の白議員の1時間にわたる質問と閣僚等の答弁の実態を、参議院のホームページで公開されている動画で確認してみよ。親孝行制度とか、孫が可愛いとか、子供が祖父母宅へ泊りがけで遊びに行けば久しぶりに夫婦水入らずになって少子化問題の解決にも役立つとか、聞いていてあほらしくなってくるような茶飲み話が延々と続き、脈略なく、慰安婦に関する日韓合意その他の問題についての質疑もなされているが、ほとんど無内容である。そしてやはり内容的に何の前後関係もなく唐突に、核兵器使用と憲法の問題についての質問が発せられるのである。これについての質疑応答に費やした時間は、全1時間の内のわずか8分弱である。安全保障政策についての議論も何もないまま、法制局長官のエスカレート(?)した答弁を自分の手柄で引き出して、安倍内閣の危険性を大衆に訴えることができれば、それで満足なのであろう。低劣である。
 啐啄同時。鳥の雛が卵の内から殻をつつく(啐)と、親鳥がそれに応えて外から殻をついばん(啄)で破ってやる。そして雛はめでたく誕生する。
 白議員が法制局長官の答弁を引き出すと、それに応えて、朝日新聞共同通信が「核使用まで言い出す危険な安倍内閣」というレッテルを全国の大衆に拡散してくれるのだ。「異例だ」(共同)とか「極めて異例だ」(朝日)と焚きつけて。
 核兵器に関する政府の憲法解釈について批判する議論はあってよい、というよりも、あるべきだ。憲法と現実の間のいびつなねじれを正視するきっかけになるからである。また、日本の核武装の是非についての議論も、現実を正視するなかでロジカルに深めるべきだ。ヒステリックな反核感情の海の中で、空理空論的な核武装論が散発する現象は危険ですらある。
 今ここでそのような問題を論じようとしているわけではない。朝日新聞共同通信そしてそれに付和雷同する人たちが、政府の憲法解釈を批判したいのなら、その解釈の経緯を踏まえておくぐらいのことは議論の初歩的な前提だろう、と言ってるのだ。3月18日に安倍内閣が突然牙を剥いたかのような印象を拡散するプロパガンダは悪質である。
 朝日新聞の記事は、紙面では割愛されている部分で、ネット版では、白議員の今回の質問が昨年8月の質疑応答(前記)を踏まえたものであることを示している所があり、まだましである。共同通信の配信記事にはそれもない。
 朝日新聞共同通信の記事に共通しているのは、日本は非核三原則を国是としてきたのに、内閣法制局長官がそれに反する発言をするのは「異例だ」という主張である。朝日新聞共同通信の記者と編集デスクは秀才ぞろいであろうから、上に述べてきたような政府の憲法解釈の経緯及び政策の経緯そして両者の区別についての知識がないなどとは考えにくい。彼らはそんな初歩的な知識を当然備えているだろう。知ったうえでのプロパガンダだと解するのが妥当だと考える。いやらしい。

 

 朝日新聞共同通信の報道があった直後から、これについての意見がツイッター上に続々とのぼってきた。以下はその内のほんの一部である。
「安保関連法施行の直前に照準を合わせて、核兵器使用容認に舵をきってきたのだ」
「安保が通って、経済危機間近のこの時期に、改めてこの発言は非常に重い」
非核三原則はどこへ行った」
自民党キチガイ集団だ」
トンデモ発言だ」
「びっくりポンだな、こりゃ」
「この発言だけで内閣はふっとばなきゃいけない」
「断固抗議し、発言の撤回を求める」
内閣法制局長官は暴言の責任をとって辞任しろ」
「病気かな」
「狂ってる」
「唯一の被爆国の政府が言う言葉か」
自民党は本気で戦争ができる国づくりを進めている」
「大変なことが起こり始めてるよ、日本は」
ナチスの手口だ」
「数年前にこんなことを言ったらとんでもないことになった」

(引用者注:38年前からずっと言ってるんですがね)
非核三原則を信じていた私が無知だったのでしょうか」
「ありえねーだろ」
「あまりにもなさけない」
「ふざけんじゃねー」
 わーわー、きゃあきゃあ・・・ まだまだ膨大にある。だいたい9割以上がこの類の発言だ。そしてその背後には何万倍もの物言わぬ同調者がいる。朝日新聞共同通信のミスリードでこれだけの反応があるのだ。なかには著名な経済学者も上の呟きの合唱に加わっているのだが、それに対してある人から次のような返信があった。「非核三原則憲法上のルールではありません よって、憲法上どうなのか、と念を押して民主党議員が質問している以上、核使用できないと答えるのは嘘になる このやり取りを印象操作に利用するのは適切でないと思います」――やっとまともな意見に出会えた。干天の慈雨である。
 愚かな発言の群れに目まいを覚えながらも我慢して見ていると、原口一博衆議院議員もわーわー、きゃあきゃあ言っていた。「これまで法制局は自衛隊は戦力に至らず必要最小限の武力の行使に限定して合憲性の理論を組み立てて来たのではないか?核使用が合憲?安保法制改変でこの解釈も変えたのか?」 だから、変えてないのだよ。民主党の要職や閣僚を務めてきた議員にして、この程度の認識なのだ。

 

 朝日新聞共同通信も、先に述べたように、このニュースの扱いは比較的地味である。大々的にキャンペーンを張ろうとしているわけではない。だが、今回の比較的小さな記事においてすら露呈されている読者の煽り方は、彼らがより大きなイシューでキャンペーンを張るときのやり口と同質である。これらのメディアの体質といってもいいだろう。読者が問題の本質について考える資を提供するのではなく、むしろ大衆が思考を麻痺させて情緒的に振舞うように誘導しようとしているのである。特定秘密保護法に関する審議のときも、平和安全法制に関する審議のときも、メディアによるそのような世論誘導が目立っていた。今後、緊急事態条項についての議論に際しても、さらには憲法9条2項の改正もしくは削除についての議論に際しても、このような不公正な情緒的誘導が展開されることが予想される。反対なら反対のスタンスで論を張ればよい。だが不公正な手法で世論を誘導するようなことは、メディアに公器としての良心があるのなら、自戒しなければならない。
 新聞の購読者数は年々減少しているが、新聞(特に朝日新聞)の論調がTVのニュースショーやワイドショーの番組作りで増幅されるのが常である。平和安全法制に対する否定的な感情がTVで連日垂れ流されていた昨夏には、世論の大多数がこの法制に反対していた。だがその報道が下火になった直近の世論調査(共同通信)では、この法制を廃止することへの賛成は少数意見になっている。いい加減なものである。憲法改正のためには国民投票が必要だが、このいい加減な世論によって日本の命運が左右されるのである。
 活字メディアは不偏不党である必要はない。特定のイシューについて、自社の賛成もしくは反対のスタンスがあってよい。だが公正でなければならない。捏造記事は論外であるが、印象操作などの手法で世論の情緒に訴えかけるような報道は、社会の公器のとるべき態度ではない。憲法解釈の問題と政策上の非核三原則の問題をあえて混線させ、従来どおりの解釈にすぎない答弁を「異例だ」と書き立てて大衆を煽動するような報道は不公正の極みである。
 新聞と違って、放送には放送法の規定で政治的公平が要求されている。有限の電波を使用する放送業者への義務規定である。地上波以外にもBS、CSの利用で多チャンネル化しているのだから、放送法第4条第1項第2号(政治的公平)の規定はもう廃止してもいいのではないかという意見もあり、一理ある。だが日本では、ニュース等を地上波の番組で視聴する者が圧倒的に多く、その中には放送法同条同項同号の規定を事実上守っていない偏向報道も珍しくない。印象操作で世論を誘導する不公正さは、活字メディア以上に映像メディアのお手の物である。このような番組が受け身の姿勢の視聴者に垂れ流されて、世論操作に大きな力を見せている現実がある以上、放送法同条同項同号の廃止は時期尚早であると思う。

 

 中国は、南シナ海の軍事基地化を着実に進め、東シナ海では尖閣への上陸と実効支配の野心を隠さず、さらに沖縄からの米軍撤退と沖縄の独立を中期的に目論んでいる。他方、アメリカのアジアからの後退は不可避の流れである。中国が提唱している、米中による太平洋の東西二分案は、近い将来の現実になる可能性が充分にある。
 このような世界の情勢の流れのなかで、日本はどのようにして生存の道を模索していけばいいのか。政治家は、アジア太平洋情勢の劇的な変化を正視して、日本の安全保障政策を論じ合うことをなぜしないのか。一部のマスコミはなぜ大衆の思考麻痺を促進しようとするのか。
(了)