月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

平和安全法制をめぐる大衆世論の危うさ(1)

長くなったので2分割する

***** 目 次 *****
(1)
【法案反対の“空気”】
【“空気”増幅装置としてのマスコミ】
【“空気”に便乗する女性誌】
(2)
【冷戦終結後の日本の安全保障政策の概観】
【三つの選択肢】
【日米同盟のアポリア
憲法上の問題について】
【過去を忘れた人間の無邪気さ】

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【法案反対の“空気”】
 平和安全法制整備法案の衆議院での審議と採決を経て安倍内閣の支持率は大きく落ち込んだが、直近では回復のようすを見せている。世論調査に表れる数字は、ちょっとしたことで上がったり下がったりで、この数字の変動の様相は世論のいい加減さ、無責任さの証しともいえる。
 今の「戦争法案反対」だとかの大騒ぎも、一般大衆の間では、来年の参院選の頃にはけろっと忘れられている可能性もなきにしもあらずだ。
 だが、ここ2か月余りの間に噴出したマスコミの不公正な手法による煽動と、それにたやすく乗せられた大衆多数派の思考麻痺及び付和雷同の有り様はけして忘れてはいけない現象だと考える。なぜなら、このような思考麻痺と付和雷同の性向をもった大衆とそれを自在に操るマスコミが、これからの日本国のあり方、特に憲法について考えねばならない必須の要請を前にして、頑強な障害となって立ちはだかるに違いないからである。憲法改正について賛成・反対を言う前に、冷静に議論を重ね、その議論を通して国民多数の理解を深めていくということが日本ではほとんど絶望的に不可能だろうなと思わざるを得ない、昨今の言語状況である。
 特定秘密保護法案の閣議決定(2013年10月)前後から衆参両院での審議を経て成立するまでの1か月半ほどの間にも、今回と相似形のマスコミと世論の騒ぎがあった(相似形であってサイズは今回よりも小さい)。
 特定秘密保護法が施行されると、言論の自由がなくなり、報道は規制され、作家は自由に小説を書くことが困難になり、一般の国民は旅先で風景写真を撮っただけで逮捕されることにもなりかねないなどという悪質なデマが各メディアでまことしやかに流された。最後の例は、お笑い芸人がネタで言ったのではない。報道ステーションでコメンテイター(学者)が真顔で宣もうたのである。彼が「リベラル保守」を高らかに宣言し、朝日系メディアで重用され始めた頃のことである。
 スパイ天国といわれている日本に必要なのはスパイ防止法であるが、「諸国民の公正と信義に信頼」(日本国憲法前文)することをモットーとしている日本ではその立法が困難である。中曽根内閣で法案化の意図があったが、マスコミと野党(及び与党の一部)の猛反対で閣議決定は断念し、議員立法案として上程されたものの廃案となり、立法化が実現されないまま今日に至っている(但し自衛隊法の改正により採り入れられた部分はある)。特定秘密保護法は本格的なスパイ防止法が有するスパイ活動抑止力には程遠い効果しか持たないささやかな一歩であるが、日本の安全を同盟国との信頼関係のもとで維持していくのに欠かすことのできない一歩である。「知る権利を守れ」とか「戦前に戻るのが怖い」と言って反対した人々は、日本と同盟国との信頼関係など知ったことではなかったようである。
 そしてやって来たのが、現在進行中の平和安全法制整備法案をめぐるマスコミと世論の狂乱だ。
 そこには日本の大衆の政治行動の愚かさが如実に顕われている。ここでいう政治行動とはデモや集会に参加することだけではなく、ぼんやりとした政治的感情を世論としてマス化してしまうような、社会全体を覆っている“空気”の形成をも含んでいる。むしろ後者の方が重大で深刻な意味を持っている。振り返ってみると、小泉内閣発足時にも、鳩山(由)内閣発足時にも、それを喜ぶ濃密な“空気”が世間を覆い、同調しない者は、「まさか!」と珍獣を見るような視線に晒されたものである(当時私は珍獣だった)。
 先月ラジオの朝の番組でパーソナリティ氏が「戦争法案を平和安全法制と言い換えてみたり、どうも最近の安倍さんはおかしい」と言っているのを聴いて、思わず動揺した。散策中のことで、たまたますれちがった犬が怪訝な面持で私を見上げた。これではまるで「戦争法案」が正式名称みたいではないか。「戦争法案」とは日本共産党がつけた仇名で、それも90年代の周辺事態法の頃から使っている語だ。今回それがTVの出演者などによって拡散されているうちに、正式名称であるかのように思い違いをする人たちも出てきたのだ。この“空気”が蔓延するなかで、先のパーソナリティ氏のような倒錯した発言が出てくるのであり、放送だから、それがさらに“空気”を増幅していく。
 芸能人の法案反対発言も目立っている。芸能人のなかには、以前から政治発言をしたり、共同声明書の類いに署名したりする人たちは何人かいた。だが、多くの人気芸能人は政治的立場を明らかにしないことを得策としていた。人気アスリートも同じである。党派性を明らかにすることは、幅広く国民的人気を獲得しあるいは保っていくうえでマイナスになると判断するからだろう。昔、まだ20代だった長嶋茂雄選手が「社会党が政権をとると野球ができなくなる」と発言し物議を醸したことがあった。それに懲りて、以後長嶋氏は今に至るまで政治発言は一切していない。王貞治氏や松井秀喜氏やイチロー選手や浅田真央選手が政治発言をするのを聞いたことがない。彼らは広汎な国民的人気に支えられていることを知っているからだろう。
 ところが平和安全法制をめぐっては、今までそのような広汎な国民的人気を大切にして党派性を明らかにしなかった芸能人が続々と発言するようになってきた。渡辺謙笑福亭鶴瓶長渕剛中居正広・・・等々の各氏である。彼らにとっては「戦争法案」に反対することは党派性によるものではなく、ほぼ国民の総意だという安心感があるから、その“空気”に便乗しているのである。
(注)なかには“空気”に逆らった発言をする芸能人もいることは承知している。

 

「一人も兵士が戦死しないで70年を過ごしてきたこの国。どんな経緯で出来た憲法であれ僕は世界に誇れると思う、戦争はしないんだと! 複雑で利害が異なる隣国とも、ポケットに忍ばせた拳や石ころよりも最大の抑止力は友人であることだと思う。」(渡辺)
戦争放棄っていうのはもうこれ謳い文句で、絶対そうなんですが、9条はいろたらあかん。こんだけね、憲法をね、変えようとしていることに、違憲や言うてる人がこんなに多いのにもかかわらず、お前なにをしとんねん! 民主主義で決めるんなら、違憲がこれだけ多かったら、多いほうを採るべきですよ。こんなもん、変な解釈して向こうへ行こうとしてるけど、絶対したらあかん」(鶴瓶
負の遺産原発事故)を残しておきながら、そのことにきちっとケリもつけないくせに、次のこと(平和安全法制)をやっていこうとする俺らの大将(安倍首相)、ちょっと違うんじゃない」(長渕)―カッコ内は引用者による付記・次も同じ
「(憲法9条のおかげで)70年間日本人が戦地で死んでないのはすごいこと」(中居)

 

 ほとんど無内容である。誰かが言った陳腐な言葉の羅列である。70年間戦死者ゼロという事実誤認はさて措く。逐一反論することが目的ではない。
 これらは明瞭に党派性をもった発言なのだが、発言者自身は党派性のない普遍的な真理を語っていると思っているのである。世の中全体にそういう“空気”が蔓延してしまっているからである。そしてこの人たちの持っている影響力の大きさで、“空気”はさらに増幅していく。事実これらの発言には「感動しました!」「素晴らしい!」「よくぞ言ってくれました」「尊敬します」等々の賛辞が続々と寄せられているのである。ただしネット上ではこれらの発言に対する賛否は拮抗している。それを見た発言者が、自分の言葉の党派性を相対化して自覚できる機会となればいいのだが。

 

【“空気”増幅装置としてのマスコミ】
 マスコミの役割は、政治、経済、社会、その他の事象を国民に伝え、考える材料を豊富かつ公正に提供することである。考えるための参考として、いろいろな立場の論客たちの主張を伝えることも必要である。
 新聞等活字メディアに要求される公正さは、かならずしも不偏不党を意味するものではない。各紙あるいは各誌それぞれに自社の党派性や主張があってよい。自社の主張は主張として堂々と開陳すればよいが、報道素材の取捨選択等にあたっては公正さを保たなければならない。世論を自社の主張に即して誘導するための印象操作や、不都合なニュースの冷遇あるいは無視などあっていいものではない。事実の歪曲にいたっては、あるまじき不正行為である。
 TVやラジオの放送メディアには、活字メディアとは違って、不偏不党の立場が法的に義務づけられている(放送法第1条2号及び第4条1項2号・4号)。新聞や雑誌の読者には“読む”という能動性があるが、放送メディア特にTVでは受け身の視聴者も多く、そこへ偏った方向からプロパガンダめいた放送が垂れ流されると、民主主義の健全性を損なう危険があるからである。
 その危険は充分に現実化している。放送法第4条の「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などの規定に対して、番組によっては制作者がなめてかかっているとしか思えないものもある(第4条に罰則規定はない)。
 なお付言するが、私のTV視聴時間はごく少ない。映画やコンサートの番組を録画してたまに鑑賞するほかは、ニュースを少々見聞きする程度のものである。ニュースショー番組については、報道ステーションを番組開始以来通算合計して60分少々見たぐらいである。ワイドショーなどはもう久しく見ていない。ネット界隈で悪評高き「サンモニ」や「ひるおび」などは1秒たりとて見たことがない。不愉快だからである。ゲテモノ料理から目をそむけるのと同じ心理である。
 だがワイドショーの類いについては、番組名はいちいち知らぬが、例えば人の家で、例えば床屋で、例えば大きな駅の待合室で等々、司会者やコメンテイターの言葉が耳に入ってくることはときとぎある。あとは見た人からの風聞ぐらいのものである。
 この程度の材料でも、TVは明らかに世論を一定の方向に誘導しようとしていると判断できるのである。あからさまなプロパガンダでなくとも、印象操作で大衆の“空気”を操るのはTVの特技である。ニュースは一見公平に報道しているようでも、編集の仕方 ― 何を伝え何を伝えないかという取捨選択いかんによって大衆の“空気”を操ることができる。街頭インタビューでどのような「声」を選んで放送に乗せるかという判断ひとつで世論の風向きを煽ることができる。
 平和安全法制整備法案を衆議院本会議で可決した2日後のTVで、街頭インタビューの場面を見た。中年男性が「安倍さんひとりで勝手にやってる感じ。全然説明されてないし、知らされてない」と答えていた。法案について知りたいという意思がこの人にあるのなら、新聞をしっかり読むなり、ほかにもいろいろな方法があるのである。それをしないで、流行り言葉をマイクの前で言っているだけである。それが放送に乗せられて、「国民が知らされていないうちに勝手に事を進めている。独裁者だ!」という“空気”がさらに増幅していくのだ。“空気”は事実から離れて、事実を嘲るように蔓延していく。それを煽っているのがTVである。
 7月13日に衆議院の平和安全法制特別委員会で中央公聴会が開かれた。5人の公述人(学者・評論家)の法案への賛否の意見が割れた。だからこそ、五氏の公述内容を翌日の新聞でよく読めばいいではないか。「法案について何も知らされてない」と合言葉のように言っている人たちは、この賛否両論を読むだけでも法案への理解の助けになるではないか。
 この公聴会の模様を放送はどのように伝えたか、あるいは伝えなかったか。
 その日私は移動中の車の中で、ラジオ(ニッポン放送)の午後5時のニュースを聴いた。公述内容のそれぞれの勘所を、5人の肉声の録音をまじえてアナウンサーが簡潔に説明していた。短時間のニュースなのに、公平によくまとめられた編集だった。
 帰宅後NHKTVの午後7時のニュースを視聴した。冒頭で特別委員会の遠景画像が流れて、中央公聴会が開かれたというアナウンスがあった。それだけである。公述人が語った内容の要約など何もない。開かれたというアナウンスがあっただけである。全部で10秒あったかどうか。映像はすぐに切り替えられ、「安保関連法案に反対するママの会」が発足したというニュースになった。こちらにはずいぶんと長い時間が割り当てられ、記者会見での代表の発言、会場の参加者へのインタビューなどが丁寧に伝えられた。
 いったいこれは何だ。法案の内容を国民はよく理解していない、なのに政権は採決を急ぐのかという印象報道を散々やっておきながら、肝心の法案の問題点(賛否両論)を国民がせっかく理解しようとするチャンスをこんなに露骨に潰そうとしたのだ。国民が冷静に考えるようなことがあってはならないという意図が、NHKでこれほど露わになることは珍しい。普段のNHKはもっと巧妙に不偏不党の装いをこらしているものだ。そのうえで隠微に世論誘導を進めるいやらしさがあるのだが、この日のあられもない姿には驚いた。何を焦っているのだろうか。5人の公述人の賛否両論の要約を公平に伝えることすら忌避したのだ。岡本行夫公述人や村田晃嗣公述人の賛成論は、理性的で説得力を持っていた。それがいけなかったのだろう。
 NHKは午後9時のニュース番組では、たぶん中央公聴会の内容について伝えたのだろうと推測する。私はTVには少ししか時間を割かないので、9時のニュースは見ていない。だが別枠を使って「ちゃんと報道しましたからね」というアリバイ作りをするのはNHKの常套手法だから、9時には報じたのだろうと思う。より広い層が視聴する7時のニュースではネグったのだ。
 NHKTVの各時間帯でのニュースのうち、最も広い層に見られているのは午後7時のニュースだろう。これをほぼ毎日観ていても、法案の内容や問題点はよく分からない。小さな子供を育てているお母さんたちの不安や、学者たちの反対声明や、国会前での反対集会の様子や、集会参加者へのインタビューや、国会前での瀬戸内寂聴氏のアジ演説や、別の日には村山富市氏のアジ演説やらが伝えられ続けてはいるのだが、法案の内容がよく分からない。「7時の視聴者には“理”よりも“情”だ。小難しいことは9時に放り込んでおけ」という編集方針なのだろうか。「国民のみなさま、なるべく考えないでくださいね」というのが“みなさまのNHK”からのお願いなのだろうか。
 安保関連法案についてTVの出演者が反対の意見を主張するのはおおいに結構なことだ。一方に偏らず、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」(放送法第4条1項4号)かぎりにおいてだ。この規定を守らない番組あるいはTV局もあるのだが、そのことと同じぐらいに見逃せないのは、上に述べてきたように、「街頭の声」や「変な編集」で視聴者の思考麻痺を促進するような報道のあり方である。その思考麻痺につけ込んで、「戦争に巻き込まれる」「徴兵制の不安」「独裁者」等々のデマが闊歩しているのだ。
 例年8月は「戦争の悲惨さ」「平和の尊さ」がメディアで繰り返し強調される月である。もちろん戦争の悲惨さは語り継がねばならないし、平和が大切であることはいうまでもない。だがこれがポエムとしてうたわれるだけで、そのポエムが現実の政治の役割を蔑視することにつながるのなら、かえって世界は平和を壊す方向に向かってしまうだろうことを忘れてはならない。
 例えば繰り返される核廃絶の訴えは、政治の役割を侮蔑する方向に進んでいないか。原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で長崎市長や被爆者代表は、核廃絶を訴えるスピーチに国会で審議中の安保関連法案への批判を織り込んだが、ポエムによる政治批判の典型である。
 悪魔の兵器を生み出してしまった人類は、全員が記憶を喪失しない限り、もうけして核兵器を廃絶することはできない。再び大惨禍を招来せしめないために、いかにして核戦争を回避すべきか、テロリスト集団に小型核兵器を渡らせないか、諸国家の外交政策に叡智を集めるべきであろう。歌をうたっている場合ではないのだ。
 8月9日のNHKTV午後7時のニュース、長崎市の平和祈念式典のニュースを伝えたあと、画面は市内の繁華街で核廃絶の署名活動をしている人たちの映像に変わった。それを伝えるアナウンサーが「なかには署名せずに通り過ぎる人もいました」と言った。アナウンサーの表情や口調には「なさけない、残念なことだ」というニュアンスがありありで、無関心な人々が増えていることを嘆いているようであった。もし私がその場にいたなら、必ず署名を拒んだだろう。なぜなら「核廃絶」というポエムがもたらしている“空気”としての反核運動に反対だから。全員が署名すべきだと言わんばかりのNHKの報道姿勢は、反核全体主義に陥っている。


【“空気”に便乗する女性誌】
 平和安全法制への賛否の意見の割合は、男女によって異なっている。法案が衆議院で可決された直後、7月17、18日に実施された毎日新聞の世論調査によれば、この法案への賛成が27%、反対が62%である。これを男女別に見ると、賛成は男39%、女19%で、反対は男55%、女67%である。女性の方が法案により否定的である。安倍内閣への支持・不支持の回答にも同じ傾向が表れている。
 原因はいろいろ考えられるが、TVのワイドショーや夕方の娯楽番組化したニュースショーの視聴者は女性が多いということも大きな要因だろう。それ以前に女性特有の政治に対する感情というものがあるとも考えられる。もちろん個々人は様々で、明晰な論理をもって政治を考えている女性学者や学徒も少なくない。だが他方には、全日本おばちゃん党代表代行の谷口真由美氏が言うように、「“野生の勘”で「安倍さん、なんかおかしい」とだけ思っている」(『女性セブン』8月20日・27日合併号)女性も多いのだろう。
 このような女性たちの「“戦争法案”反対」感情に便乗しているのが直近の女性誌である。
 TVには大衆世論をある特定の方向に誘導しようとしている悪意が明らかにある。一番組の制作現場には、浅薄な正義感で使命感をもって偏向番組に携わっている人も多いのだろうが、全体の傾向を鑑みると、制作現場を超えたところに確固とした「意図」が存在していると思わざるを得ない。それが誰の意図であるかを、私は知らない。
 女性誌の動機はもっと単純である。女性誌の出版社は世の“空気”に便乗して利を得たいだけである。
 “便乗”というより“悪乗り”といったほうがふさわしい記事もある。女性誌のなかで発行部数一位を誇る『女性自身』(光文社・38万)から見ていこう。

(注)以下( )内の数字は㈳日本雑誌協会が公表している印刷証明付発行部数で、ここでは1万未満を四捨五入した。調査期間は2015年4~6月で、1号あたりの平均印刷部数である。発行部数に対する実売率は不明である。
ちなみに週刊誌総合では一位が週刊文春(68万)で、週刊新潮(54万)、週刊ポスト(40万)がこれに次ぐ。

 

 『女性自身』8月4日号は3人の論客の主張に1ページずつを割り当てている。
 瀬戸内寂聴氏は、この法律は日本国民を世界中で死なせ国を滅ぼすと煽動し、“戦争法案”を押し通した安倍首相は美しい憲法を汚した、世界の恥だ、となじる。1ページ一貫して無内容である。コメントに値しない。
 赤川次郎氏はかつて何年もの間文壇長者番付の一位を独走していたベストセラー作家だ。読みやすい軽妙な文体のミステリーが当時の若い女性を惹きつけた。今の中高年が当時の読者層で、現在の『女性自身』の読者層に重なる。戦後生まれの氏は親から聞いた戦争の悲惨さを語り、安保法案が通ってしまったことで、「暴走する安倍政権」を止めるため、これからも声を上げ続けなければならない、と語る。戦争の悲惨さと安保法案にどのような関係があるのか不明である。「暴走する安倍政権」とは何を根拠に言っているのか不明である。氏は世間の“空気”に乗ってものを言っているにすぎない。
 内田樹氏は売れっ子の哲学者で人気絶頂の論客だ。赤川氏とほぼ同世代である。氏は集団的自衛権の行使容認とはアメリカから戦争の負担を分担させられるものにすぎず、日本が戦争に巻き込まれるリスクが高まると言い、この法案は憲法違反であると言う。この点については本稿の後半で考察するので、今は措く。氏の他の場所での発言にもしばしば見られる「安倍憎し」の感情がここでも爆発している。安倍首相は「いくら国民が嫌がることをしても処罰されない自分の権力に深々と酔っている」のであり、安保法案で「もたらされるのは安倍首相の個人的な快楽だけ」と断定する。大嫌いな人間をののしって自分の溜飲を下げているだけである。私的憎悪感情から妄想したデマをマスメディアで流してはいけない。この人の品性の問題である。
 『女性自身』のこの号のトップ記事は「美智子さま」である。「私は“戦争の芽”を摘み続ける!」というタイトルである。皇后陛下のおっしゃりもしない言葉を勝手に捏造しているのだ。してはいけないことである。昨年10月のお誕生日でのお言葉に似た言い回しがなくはないが、こんなアジテーションのようなことはおっしゃっていない。お言葉の改竄というより捏造だ。
 次いでリードを全文引用する。「戦後70年という節目の年に、日本の“平和を揺さぶる”法案が成立しようとしている。天皇皇后両陛下はこの異常事態をどのようなお気持ちでご覧になっているのだろうか」
 記事本文では、7月16日両陛下の福島ご訪問に同行した皇室担当記者の「美智子さまが以前よりほっそりされたように見えました」という印象を紹介し、「前日の“強行採決”のご心痛もあったのかもしれません」と推断している。明らかに度が過ぎた悪乗りだ。皇室が政治の諸党派から超然とした位置にあり、その立場を守らなければならないことは誰よりも両陛下がご存じである。たかが一議案の採決の結果に心を痛めたりするわけはないのであり、勝手にこんな下卑た忖度をされては、それこそご心痛いかばかりかと案じる次第である。
 悪乗りをして皇室の政治利用をしているのは『週刊女性』(主婦と生活社・23万)も同じである。同誌7月28日号は元共同通信記者橋本明氏の“忖度”を記事中で紹介している。
 橋本氏は語っている。「両陛下は、現在の安倍晋三内閣が集団的自衛権の限定的な行使を容認し、日本が再び海外で戦争をする可能性を高めていることに、非常に抵抗感があると思います」そしてもし安保法制が成立すれば、その法律に御名御璽(署名・押印)を入れなければならなくなるから、「陛下は現在、たいへんお苦しみで、美智子さまも憂慮されていると思います」
 女性誌を皮切りとして、皇室の政治利用がなし崩しに進んでいるのは大変危険な予兆である。
 この問題にこれ以上深入りすると脱線になるのでここまでとするが、「それは違います」という反論や弁明の方途をいっさい持たない人の心の内面について、こういう言いたい放題の利用をするのは、皇室への尊崇の念の問題以前に、人として卑怯である。
 『女性自身』は3人の論客のほとんど無内容な記事と皇后陛下の政治利用があるだけだが、『週刊女性』は法案の内容や憲法について考察した記事があるだけましだといえなくもない。終始一貫左側に偏っているのではあるが。
 『週刊女性』の7月14日号は10ページを使って、「戦後70年、日本は戦争をする国になるの?」という特集を組んでいる。そのメインタイトルが「「戦争法案」とニッポンの行方」である。「これは“戦争法案”なのだ」という決めつけから始まっているのである。学者やジャーナリストのコメントを引用しながら、法案が違憲であること、戦争に巻き込まれる危険があること、将来は徴兵制の可能性があることがほとんど断定的に書かれている。「首相が目論む改憲Xデー」という記事もあり、改憲が議論以前に自明の悪であると印象付けられている。編集長の話ではこの号の実売率が平均よりも3~4ポイント上がり、追加注文もあったそうだ(朝日新聞デジタル版8月10日より)。以後『週刊女性』は毎号同じテーマでの特集を続けている。
 『女性セブン』(小学館・38万)の8月20日・27日合併号は「70年目の夏に考える日本と戦争」と題する7ページの特集を掲載している。『女性自身』や『週刊女性』に見られるようなあられもない偏りはなく、中立的立場で編集されている。憲法の歴史、中国や北朝鮮の脅威、日米安保条約の意義と限界、自衛隊の役割と限界などのテーマが簡潔にまとめられている。ここまで挙げた3誌のなかではいちばん冷静な記事といえる。徴兵制の不安については、国民主権の民主主義国家には国民に権利とともに義務があるということ、(さすがに「国防の義務」という語は避けているが)「国を維持するために守る」義務があるということが評論家(防衛省OB)のコメントの形で説明されている。だから即徴兵制だと短絡する人がいれば、それは誤解であるが、このコメントで語られていることは多くの日本人が忌避している政治学の初歩である。
 左でなければ右だということではない。『女性セブン』はニュートラルである。この特集の締め括りにある一文を引用しよう。「今、私たちが議論しなければいけないのは、“日本が戦争できる国になってしまってもいいのか”という問題以上に、“日本は戦争、つまり軍事力とどうつきあってきたのか”、そして“これからどうつきあっていかなければいけないのか”ということだろう」― このまっとうな問題意識が、はたしてTVのワイドショーやニュースショーにあるのだろうか・・・・・私は見ていないのでよく分からない。
 以上3誌の読者年齢層は主として中高年である。なかでも『女性自身』は高齢の読者が多い。『週刊女性』は20代までの広がりがある。(毎日新聞社「読者世論調査」等の資料による)
 10代半ばから20代初めの女性を主たる購読層としている雑誌で、憲法や戦後政治の諸問題を取り上げているのが『セブンティーン』(集英社・23万)の9月号である。ちなみに誌名のSeventeenとは17歳という意味ではなく、thirteenからnineteenまでの「7つのティーン」という意味だそうである。
 『セブンティーン』は全ページの大半でお洒落関係その他乙女チックな写真が満載されているカラフルな雑誌で、上記の記事は後ろのほうの目立たない場所にひっそりと置かれている。活字は極小で、私は眼鏡をかけてさらにルーペの力を借りてようやく解読できた次第である。読者の少女に老眼の心配はないが、それでもこの2ページ余りを熟読しようとする者は、かなりの問題意識を持っている人に限られ、読者全体のうち2、30人に1人いるかどうかというところだろう。
 で、それなりの問題意識をもって読んだ読者は拍子抜けするのではないだろうか。知識欲から読んだ少女にとって、あまり勉強にならない内容だからである。
 記事は憲法学者の木村草太氏(35歳)と10人の少女(高校生9人、大学生1人)によるゼミナールの記録である。木村氏は先述した衆議院特別委中央公聴会での公述人の1人である。この記事の後書きのコラムで木村氏が書いているように、氏は1945年を日本の歴史の始点とし、それ以前を過ちの時代と捉える史観の持ち主である。
 ゼミは「戦後70年」「憲法」「沖縄の米軍基地」等8つのテーマについて、先ず木村氏が問題提起(「木村先生からの考えるヒント」)をし、それについて生徒たちが感想を述べるという形で進められる。木村氏は努めて中立的に「ヒント」を提起しようとしたのだろうが、事実上自分の史観(上記)で生徒たちを誘導しようとする結果になっている。子供相手に堪え性のない人である。生徒のほとんどはその誘導に忠実に追随し、迎合している。いちいち列挙するときりがないので、一つだけ例を挙げるにとどめておこう。
 憲法9条をテーマとした箇所での「木村先生からの考えるヒント」にはこう書かれている。「憲法9条について“外国に守ってもらいながら日本だけ安全なところにいるのか”と言う人もいます。けれど、紛争地域に対してできることは武力行使だけではない。この9条を守り抜くことによって、武力以外の国際貢献について考えていかなければならないのです」
 この“ヒント”に対する生徒たちの発言は「今までは、単に戦争はいけないという理由で改正に反対していたが、今日の話を聞いて、違った視点で考えることができた。やはり9条は変えるべきではないと思う」(高3) 「私は今まで、海外から武力で守ってもらうのに日本は武力行使をしないというのはおかしいと思っていた。けど、日本なりの支援の仕方があるということを知ったので、憲法9条への考え方が変わりました」(高2)という具合である。そして次の改憲をテーマとした箇所では、「実際変えたいと思っている人は国民にはなかなかいないと思う。もし戦争がどっかで起きて、それに自分が行きたいかって聞かれたら、行きたくないですし、憲法を変えないでほしい」(高1) 木村コンダクターに「よっ、マエストロ!」と声のひとつも掛けたくなってくるのであった。
 私はこのゼミの記録を読んでいて、7月16日に放送されたNHKTVのローカル番組「首都圏ネットワーク」を思い出した。番組は千葉県のある高校での社会科授業を紹介していた。題材は安保法制で、生徒どうしの議論を中心に進められる授業だ。教師は問題を投げかけるが政治的中立を厳守し、生徒たちが自分と異なる意見に出会うことで、それによって自分の考えを深めるきっかけをつかむことを授業の狙いとしていた。「異なる意見に敬意を払う心」と「考える力」を育てようとする優れた授業だと思った。
 木村草太氏の著作を読んだことはないので、学者としての氏への感想は何もないが、教育者としてはこの千葉の高校教師と質的に格段の差があると思った。
 『セブンティーン』のゼミに登場した生徒たちのほとんどが木村氏の誘導に乗せられるなかで、Kさん(高2)の「憲法の内容や主旨を理解することがまず必要だと思いました。そのうえで、自分の意見を持っていきたいです」という発言が私には救いだった。Kさんは他のテーマでも自分の言葉で発言していて、沖縄の米軍基地問題についての発言も光っていた。けして知識が多いわけではなく、高い見識を持っているわけでもない。そういう意味では他の生徒と変わらない。だがその場の“空気”に迎合せず、自分の言葉を素直に語ろうとしている。彼女は何ごとにつけ付和雷同をしない人なのだろうなと思った。
 こういう人を続々と育てていくのが、高校教師であれ、大学教師であれ、次世代の教育に関わる者たちの使命であろう。

 この項が長くなってしまったが、平和安全法制に対しての反対意見が女性に特に多いということを知ったのが、女性誌を読むきっかけとなったのだ。
 女性誌は営業戦術上、世論の趨勢に便乗したのだろう。これらの特集で販売部数が伸びているそうだ。なかにはましな記事もあったが、多くが下品な悪乗りである。
 “空気”に便乗する者が、あらたに“空気”を広めていく。日本人が雪崩をうって崩壊に向かっていくなかで、Kさんのような賢者も静かに暮らしていることに一筋の光明を見たい。

<(2)へ続く↓>