月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

江藤淳雑感(1)

 小谷野敦氏の近著『江藤淳大江健三郎  戦後日本の政治と文学』(筑摩書房)は刺激的な書である。

 若い頃江藤淳を耽読した私にとって、その読書体験を顧みる良い機会となった。

 というわけで、思いつくままに以下の文章をしたためた。長くなったので4分割する。 

 

*** 目 次 ***

(1)

【とっちゃん坊や】

【昂然とした姿】

【適者生存】

(2)

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

【公への責任感】

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき日本の戦後民主主義

(3)

【閉された言語空間】

【親米と反米】

(4)

【平成の逸民】

【師弟】

【轟く雷鳴】

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 

(以下敬称はすべて省略する)

 

【とっちゃん坊や】

 私が初めて読んだ江藤淳の文章は、昭和39年の秋に朝日ジャーナルに連載していた『アメリカと私』(注)である。

(注)小谷野前掲書のp.181に「江藤は、(昭和39年の:引用者注)九月から十一月まで『朝日ジャーナル』に『日本と私』を連載した。」とあるが、これは小谷野の思い違いである。『日本と私』の朝日ジャーナルでの連載は昭和42年のことである。

  私は当時政治についてほとんど無知で無関心の高校3年生であったが、政治少年のクラスメートから「おまえほんまなんも知らんのやなあ」と友好的に批判を受けたことがきっかけとなり、一念発起、朝日ジャーナルを読み始めたのである。定期購読を始めたのと『アメリカと私』の連載がスタートしたのが同時だった。

 とてもおもしろく読んで、次号の発売を待ち遠しく感じた記憶がある。しかし具体的にどのような感想を持ったのかということになると、まったく覚えていない。無知で無教養で幼稚な少年であったから、たいした読後感などなかったのだろうと思う。

 次に読んだのが、大学1年生のときに刊行が始まった講談社の『われらの文学 全22巻』(大江健三郎江藤淳が編集委員)のうち第1回配本(第18巻)『大江健三郎』(昭和40年刊)の中の江藤淳の解説文『自己回復と自己処罰 ―『性的人間』をめぐって―』だった。これも大江の作品は夢中になって読んだのだが、江藤の解説文についての読後感は覚えていない。たぶん私の方で江藤の文章についていくだけの素養がなかったのだろう。ちなみに当該シリーズの第22巻『江藤淳吉本隆明』は購入すらしなかった。

 以後学生時代に江藤淳を読むことはなかった。新聞や雑誌での江藤の文章は目にしたと思うが、印象に残っていない。朝日ジャーナルの『日本と私』(上記注)も当時読んでいた筈だが、まったく記憶がない。

 江藤淳の著作を貪るように読み始めたのは20歳代も半ばになってからのことで、30代にかけてまさに耽読した。

 それは私自身が大きく転回した時期でもあり、当時暗中でもがいていた私の心をとらえたのが江藤淳の著作だった。最初の一冊 ― きっかけとなった一冊が何であったのかについても、これまた記憶がない。気がつけば、仕事の僅かな余暇を利用し夢中になって次から次へと読んでいたのである。

 最初の一冊が何であったかの記憶がなくとも、『批評家の気儘な散歩』(新潮選書・昭和48年)、『一族再会 第一部』(講談社・昭和48年)、『海舟余波 わが読史余滴』(文藝春秋・昭和49年)などをこの時期に読んだときの胸の震えは今も忘れられない。『江藤淳著作集全6巻』(講談社・昭和42年、以下『著作集』と略記する)、『同・続全5巻』(昭和48年、以下『著作集・続』と略記する)も次々に読んだ。『著作集・続5』所収の講演録『考えるよろこび』(初出昭和43年)などは一言一句が五臓六腑に沁み渡ったものだ。

 にもかかわらず、私は江藤淳を崇拝することなどはまったくなかった。小谷野敦は若い頃江藤淳に「崇拝に近い気持ち」(小谷野自身の言葉)を持って「遠く仰いできた」そうだが、私は江藤に限らず誰をも崇拝はしない。尊敬はするが。

 江藤を読んでいるときにも、もしこの人が身近にいたならば仲良くはなれないだろうなというような違和感を持つことが時々あった。

 江藤の文壇デビュー作『夏目漱石』(初出昭和30年・三田文学)を読んだときにも、その書の魅力に引き込まれつつも、執筆当時弱冠22歳の青年がどうしてこれほどまでに成熟した人間観と洞察力を持ち、老成した文章を書けるのか不思議でならなかった。悪くいえばこまっちゃくれた奴だという印象が拭えなかった。

 江藤淳没後に、石原慎太郎が湘南中学(旧制)で江頭(江藤の本名)に初めて会ったときの印象を「とっちゃん坊やだった」と回顧している(文學界平成11年9月号・福田和也との対談)が、私が江藤のデビュー作を読んだときの印象もそれと似ている。

 また、江頭や石原など数人の湘南中生が歴史学者の江口朴朗(江頭の親戚)邸を訪問したとき、江頭少年と江口教授が横文字を交えて侃々諤々議論しているのを横目に眺めながら、2時間もの間石原ら他のメンバーにはチンプンカンプンで苦痛だったというエピソードも上記の対談で紹介されている。無知で無教養な私がそこにいたならば、江頭少年を殴りたくなったかもしれない。

 江頭少年はその後新制日比谷高校に転校したのだが、江藤淳の葬儀に骨を拾いに来る日比谷高校OBは一人もいなかったと石原は語っている。江藤の孤独を物語るエピソードでもある。

(注)通夜や葬儀への参列はあったのだろうと思う。福田によれば、「近年の文壇では稀な盛儀」であったそうだ。(『江藤先生の葬礼』文藝春秋平成11年11月号)

 

【昂然とした姿】

 講演等を含め、私は江藤淳の姿を直接拝見したことは一度もなかったが、いつも思い浮かぶイメージは、小柄な体の背筋を伸ばし昂然と胸を張っている姿である。そしてその昂然とした姿に対して、鼻持ちならないと思う劣情が当方に惹起されることも時にあったのだ。

 例えばである。江藤は週刊現代に見開き2ページの『こもんせんす』というコラムを長く連載していた(昭和48年~57年)。私も愛読していたのだが、昭和50年だったか51年だったか忘れたが、学習塾の講師という職に就く若者を批判する文章に接したときには、ずいぶん腹を立てたものだった。当時私は学習塾の経営に心血を注いでいたのである。

 その週の『こもんせんす』で『新しき“泰平の逸民”たち』と題されていた文章はその後単行本に収められた。『続々こもんせんす』(北洋社・昭和51年)である。

 江藤は受験戦争の中で育ってきたひ弱な若者が、大人になっても社会に出ることを回避し再び受験至上の世界にとどまって当面の生活費を得ていると嘆く。江藤にとっては大会社や官庁に就職することだけが若者のあるべき姿に見えるらしい。江藤はこの文章の中で、コックになる若者をも口汚く侮辱している。

 世には様々な職業があり、また人それぞれに様々な事情があり、大会社や官庁への道からはずれざるを得なかった者も社会の一隅で懸命に居場所を築こうとしていたのである。受験戦争の中で育ったからひ弱になり、そこから抜け出せないのだという江藤の意見は、この当時の受験戦争に対する紋切り型で薄っぺらな先入見に基いている。

 江藤はこのコラムを「そしてきょうもまた、代数の問題か何かを子供の前で解いてみせている。思うだに身の毛がよだつ話じゃないでしょうか。」という文で締め括っている。

 私は人格識見ともに卓越した同業者を何人か知っている。また子供たちの学習能力(教科を越えた学習能力そのもの)を真底から向上させてきた同業者も知っている。そこまで及ばずとも、塾講師はそれを職業として引き受けた以上、他者に価値を提供して報酬を得ているのである。子供の前で方程式を解いてみせることが仕事だと思い違いをしているような講師がもしいるのなら、そのような講師や塾はたちまちのうちに淘汰されてしまうにちがいない。

 江藤がこの文章を書いた当時は、マスコミの反塾キャンペーンが頂点に達していた頃である。そしてマスコミに誘導された世論を背景に昭和52年の文部省学習指導要領改訂で初めて「ゆとり教育」路線が導入された。(詳しくは拙文『理念なき国家の教育改革』参照→http://asread.info/archives/1434

 江藤淳ともあろうものが、流行りの風潮に便乗してものを言うのかと驚いたりしたものだ。

 というように、江藤の常に昂然と胸を張った姿には、「何だ、コノヤロ!」と反発することもあったのだ。

 しかしこの昂然とした姿勢の裏には、実は江藤の悲しみが隠されている。それは江藤の思想の核心で息吹いている感情であり、その悲しみと昂然と背筋を伸ばした姿との関係については、鈍い私でも江藤を読み込むことで次第に解ってきたのである。

 

【適者生存】

 私が江藤淳のイメージをいつも胸を張っている姿で思い浮かべるのは、やはり最初に読んだ『アメリカと私』から受けた印象が刷り込まれていたせいなのかなと、最近になって思うのである。冒頭で記したように、そのときの読後感の記憶は今はまったくない。当時の朝日ジャーナルももう手元にない。ただ写真を一葉だけ覚えている。プリンストン大学の構内を歩く江藤夫妻を横から撮った写真で、江藤は胸を張っていたと思う。後年購入した『著作集・5』に添付された月報が今手元にあるのだが、そこにはプリンストンの湖畔を歩く江藤夫妻の写真(朝日ジャーナルとは別の写真)が掲載されており、江藤はやはり背筋を伸ばし胸を張っている。

 『アメリカと私』は、江藤が29歳から31歳までの2年間、前半1年間はロックフェラー財団招請の研究員、後半の1年間は日本文学担当の教師としてプリンストン大学で過ごした滞在記である。

 敗戦後17年、復興したとはいえいまだ貧しい小国日本からやって来た小柄な江藤が大男や大女の中で揉まれながら、当初は慣れない英語を駆使して、単なるヴィジターとしてではなく、できることならこの国に「自分の署名入りの痕跡を残したい」と志した2年間であった。

 『アメリカと私』の連載第1回目は『適者生存』と題された文章である。

 プリンストンに辿り着く遥か手前、ロサンゼルスで夫人が激しい腹痛で倒れるというアクシデントに見舞われ、しかし休暇シーズンのため医者が容易に見つからず、孤軍奮闘右往左往する江藤の姿が描かれている。夫人はようやく翌朝入院することができ、短時日で無事退院するのだが、高額な医療費を請求された江藤はロックフェラー財団と交渉し、その全額を財団から受け取るに至るまでの異国での江藤の懸命の活動が描かれている。

 

 病人は不適者であり、不適者であることは「悪」である。「悪」は当然「善」であるところの適者に敗れなければならない。ところで、自分が、適者であることを証明するのもまた自分以外にはなく、この国では他人の好意というものを前提にしていたら、話ははじまらない。自分のことは黙って自分で処理するほかないのである。(同書)

 

 もちろん2年間孤軍奮闘し続けたわけではなく、江藤夫妻はプリンストンでの生活に溶け込み、夫人の誕生日にはホームパーティーを開いたりして教授たちとの親交を深めている。また、教師としても学生たちからの信頼を得ている。

 だが、訪米当初の「異質の文化のなかで、自分の同一性(アイデンティティ)を保とう」(同書)との覚悟は一貫している。プリンストンが江藤にとって「自分の町」であるかのような安息の場になってくるのに比例して、日本の歩みや現状の問題点が明瞭に見え始め、古事記・万葉に繋がる自己意識を再認識するのであった。

 ともあれ江藤は2年間のアメリカ滞在で、適者として生存し得たにとどまらず、学会での発表に対する好評の獲得、2年目にはRank of Assistant Professor(助教授待遇と訳せばいいのか)としての採用等、「自分の署名入りの痕跡を残す」ことにも成功したのである。

 この「適者生存」への意志は、敗戦後の日本を生き抜こうとした江藤の意志にも通じるものであった。

 なお江藤のアメリカ観については後述する。

 

↓(2)へ続く