月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

江藤淳雑感(2)

*** 目 次 ***

(1)

【とっちゃん坊や】

【昂然とした姿】

【適者生存】

(2)

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

【公への責任感】

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき日本の戦後民主主義

(3)

【閉された言語空間】

【親米と反米】

(4)

【平成の逸民】

【師弟】

【轟く雷鳴】

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 

(以下敬称はすべて省略する)

 

承前

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

 江藤は慶応の大学院で担当教授との折り合いが悪かった。教室へ入って来た教授が江藤の姿を認めると、「今日は江頭君がいるから授業をしない」と言って出て行くなど、異常な嫌われ方をした。あげくのはて教授は江藤の文筆活動に難癖をつけ、退学を勧告するにまで至った。江藤は抗議の意味で授業料を納め形式的な在籍を続けたが、結局在籍2年間での退学となった。

 以後38歳で東京工大に奉職するまでの間、江藤は学生時代に結婚した妻を従え、ただ筆一本でのみ生計を支えたのである。文芸評論家江藤淳の力量と名声がそれを可能にした。

 漱石の研究は江藤のライフワークであったが、『漱石とその時代 第一部』(新潮選書・昭和45年、雑誌初出は42年)では、幼い金之助が読んだであろう『小学読本』の一節「必ず無用の人と、なることなかれ」を引用し、金之助が幼少期におかれた特殊な家庭環境に思いをめぐらせながら、学問が金之助にとっては単なる知的充足や社会的訓練への手引きでもなく、自己の存在の救済に結びついた行為であったろうと書いている。江藤にとっての文学もまた、敗戦後の喪失感覚を抱える自己の魂の救済であると同時に、「無用の人」となることなく適者たらんとして生きる意志に基づく行為であったのだろう。

 江藤が心に抱えていた喪失感は、一義的には、江頭家が戦前に属していた中間層から転落したことによってもたらされたものである。疎開先の鎌倉から戻って来た東京場末でのバラック生活がその悲哀を端的に表している。

 江藤の父方の祖父は海軍中将として明治日本の中枢で活躍した人である。江藤はその人を肖像写真と祖母や父から聞く話からのみでしか知らなかったのだが、幼い江藤の中では、日本の国家と祖父が重なって感じられていた。

 

 戦前の日本で、自分が国家と無関係だと感じた子供はいない。しかし私にとっては、それはある意味では祖父がつくったもののように感じられた。

(『戦後と私』・初出昭和41年・『著作集・続1』所収、傍線は原文では傍点…以下同じ)                           

  しかし敗戦によって私が得たものは、正確に自然が私にあたえたものだけにすぎない。私はやはり大きなものが自分から失われて行くのを感じていた。それはもちろん祖父たちがつくった国家であり、その力の象徴だった海軍である。私は第二次大戦中の海軍士官の腐敗と醜状を自分の眼で見る機会があったから、この海軍が祖父の時代の海軍と同じものではないらしいことに漠然と気がついてはいたが、それでも連合艦隊が消滅したことは心に空洞をあけた。(同書)

 

 そして生まれ育った新宿区大久保百人町の住宅街は戦災で軒並み焼き払われ、アメリカから帰国した翌年久しぶりに生家のあった付近を訪問した江藤は呆然とする。一帯がラブホテル(当時の言葉で“連れ込み宿”)の建ち並ぶ猥雑な光景になっていたのである。江藤は故郷を喪失したと感じた。

 さらに心の深くには、4歳半のときに死別した生母への根源的な喪失感がある。江藤自身の言葉に拠れば「私が世界を喪失しはじめた最初のきっかけである。」(前掲『一族再会』)そして江藤最晩年の未完の絶筆『幼年時代』(文學界平成11年年8月号・9月号)を、半年前に逝った妻と62年前に逝った母が二重写しになったかのような描写で書き始めている。

 江藤の喪失感は幾層にも重なっている。

 

 私はある残酷な昂奮を感じた。やはり私に戻るべき「故郷」などはなかった。しいて求めるとすれば、それはもう祖父母と母が埋められている青山墓地墓所以外にない。生者の世界が切断されても死者の世界はつながっている。それが「歴史」かも知れない、と私は思った。(中略)自分にとってもっとも大切なもののイメージが砕け散ったと思われる以上、「戦後」は喪失の時代としか思われなかった。(『戦後と私』)

  しかしいずれにせよ私は、戦後「正義」を語って来た人々のつくり上げた文化が、いまだにひとりの鴎外、ひとりの漱石を生み得る品位を得ていないということを直視するようにすすめたい。「平和」で「民主」的な「文化国家」に暮し、敗戦によってなにものも失わずにすべてを獲得したと信じ、その満足感がおびやかされることを「悪」の接近と考えている人たちに、戦時中ファナティシズムを嫌悪しながら一国民としての義務を果し、戦後物質的満足によっても道徳的称讃によっても報われず、すべてを失いつづけながら被害者だといってわめき立てもせず、一種形而上的な加害者の責任をとりながら悲しみによって人間的な義務を放棄しようとは決してせず、黙って他人の迷惑にならないように生きているという人間もいるということを知っていてもよいだろうというのである。(同書)

 

 「喪失の時代」として戦後を受け入れるしかなかった江藤は、戦後を「平和」と「民主」の「正義」の時代だとして謳歌する九十九人を軽蔑し、憎んだ。

 この戦後日本に蔓延した(今もさらに強固である)欺瞞と闘い続ける意志が、江藤淳の旺盛な言論活動の底流にあった。

 

 私は若い頃のある日、友人に「歴史は進歩し建設が進んでいくものではなく、崩壊していくものだという江藤淳の歴史感覚に惹かれる」と語ったことがある。どの著作からの引用であったかは忘れた。TVでの発言であったかもしれない。いや江藤の直接の言葉ではなく、インスパイアされた私の造語だったかもしれない。そのへんの覚えはないが、その会話が昭和47年のものであったことは明瞭に覚えている。いまだオイルショックには見舞われず、日本の経済成長は順風満帆に進んでいるかに見える時代だった。彼女はきょとんとして聞いていたが、「危ない人だ」と思ったかもしれない。

 

【公への責任感】

 江藤淳にとって、「私」と「公」は二元的に対立する概念ではない。メビウスの帯のごとくに表と裏の区別なく繋がっている。

 母との死別、階層の転落による悲哀、さらには結核による長期の療養と学業の遅れなどは、一義的には私ごとに属する喪失感である。そして祖父の肖像に重ねて見た国家の敗北と海軍の喪失、これらが国の敗北で傷ついた弱い父への責任感を喚起し、その一点で私的な喪失感は国家への責任感に通じていくのだ。

 

 この世界(引用者注:戦後の日本)には実は私権などというものは存在しない。なぜならこの世界には公的なものが存在し得ないからである。「ごっこ」の世界とは、したがって公的なものが存在しない世界、あるいは公的なものを誰かの手にあずけてしまったところに現出される世界、と定義することができるかも知れない。それなら公的なものとはなにか。それは自分たちの運命である。故に公的な価値の自覚とは、自分たちの、つまり共同体の運命の主人公として、滅びるのも栄えるのもすべてそれを自分の意志に由来するものとして引き受けるという覚悟である。それが生甲斐というものであり、この覚悟がないところに生甲斐は存在しない。よってわれわれには生甲斐は存在しないのである。              

 私権というものは、もともと公的な価値との緊張関係がないところには存在することはできない。現にわれわれの周囲にあるのはわたくしごとだけである。(『「ごっこ」の世界が終ったとき』初出昭和45年、『著作集・続3』所収)                           

 

 引用者として補足すれば、私権と公的な価値との緊張関係とは、けして「私」と「公」を二元的に捉えた言葉ではなく、メビウスの帯内での緊張関係であると思う。

 それはさておき、江藤はここで、公的な価値すなわち自分が属する共同体の運命の主人公であるという覚悟を持った「私」の欠如を戦後日本の病と捉えているのである。そして少なくともこの文章を書いた昭和45年の時点では、江藤は(きわめて困難な道ではあるが)「戦後」が終わること、日本人が真に自分の運命を自分で決定する国家を持つ時代が到来することに一縷の望みを繋いでいるのである。だからこそ題名が「終ったとき」となっていて、そこに望みを託しているのである。

 そのための言論活動が江藤の国家に対する責任のとり方である。

 

 それ(引用者注:真の自主独立)はいうまでもなく現実の回復であり、われわれの自己同一化(アイデンティティ)の達成である。そのときわれわれは、自分たちの運命をわが手に握りしめ、滅びるのも栄えるのも、これからすべて自分の意志で引き受けるのだとつぶやいてみせる。それは生甲斐のある世界であり、公的な仮構を僭称していたわたくしごとの数々が崩れ落ちて、真に共同体に由来する価値が復権し、それに対する反逆もまた可能であるような世界である。われわれはそのときはじめてわれにかえる。そして回復された自分と現実を見つめる。今やはじめて真の経験が可能になったのである。(同書)                       

 

 江藤の責任のとり方は「治者」の論を説くことである。「治者」とは自分たちの共同体の運命への責任を自覚する者のことである。「平和ごっこ」をしている者たちにその自覚はない。(ちなみに「平和ごっこ」は私の造語で江藤の言葉ではない)

 江藤が勝海舟を高く評価するのも、そこに「治者」のあるべき姿を見出したからである。

 海舟は江戸の無血開城に尽力し(というよりもそれを主導し)、英仏が薩摩と幕府それぞれに仮託して代理戦争を戦わせる修羅場になる危機から日本を救った。幕臣でありながら、したがって「裏切り者」の誹りを浴びながら、薩長への条件降伏を主導したのは、海舟に幕府を超えた「日本」という国家意識と国際情勢への高い見識があったからである。

 無血開城にとどまらず、維新以後も、条約改正をめぐる国内の争い等、明治初期のたびたびの国家分裂の危機を、海舟は明治政府の縁の下の力持ちとして、回避せしめた。

 勝海舟なかりせば、まちがいなく日本は諸列強に分割され、植民地の悲惨に陥ったであろう。

 同じく幕臣であった福沢諭吉は、「自ら自家の大権を投棄し」しかも敵方の薩長が打ち立てた明治政府に出仕する海舟を厳しく批判した。これに対し海舟は寸鉄人を刺す短文で応じただけで、一切の弁明をしなかった。曰く「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」(前掲『海舟余波』より)

 「国唯自亡」という海舟の言葉、つまり「国と云うものは、決して人が取りはしない。内からつぶして、西洋人に遣るのだ」という意味の危機感(『勝海舟』・初出昭和43年、『著作集・続3』所収より)は平成の日本人こそが肝に銘ずべきである。たぶん聞く耳を持たぬ者が圧倒的多数だろうが。

 

 私がここ四半世紀以上にわたって日常接してきた人たちのなかには、生活のいろいろな局面で「治者の発想」に接しただけで、それが何か悪いことであるかのように反応し、あるいはせせら笑い、善良な「私人」にこそ正義があるかのように言ったり振る舞ったりする人が少なからずいた。「治者」の「治」は「自治」の「治」でもあることを知らないのだ。

 

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき戦後日本の民主主義】

 30歳前後の2年間、江藤はプリンストンに受け入れられていくのに比例して、自分のなかの日本を明瞭に意識していくことにもなった。「主張をすてることによってではなく、主張することによってうけいれられて行く」(『アメリカと私』)というプリンストンでの快適さは、日本の知的世界を覆う理不尽な不自由さからの解放感と一体であった。日本では「あたかも戦前の天皇神権説に比すべき強力さで、戦後の国体である「平和」と「民主主義」という理念の周囲をしめつけているタブー」(同書)が存在した。そこでは、「明治以来の日本の外交政策を弁護しても、それは「戦後民主主義」に対する冒瀆」(同書)だといわれたりしていたのだ。日本の社会には温かさがあったが、それは同時に江藤のなかの「なにか」を弾き返す社会でもあった。   「孤独であることは、ここでは「悪」ではなくて、強さのしるしとされた。淋しい人間が周囲にいくらでもいる以上、淋しさは常態であって、特別な病気ではないからである。」(同書)

 日本人である江藤夫妻に対し友好的な態度をとる市井のアメリカ人に、江藤が不快な感情を持つこともときにあった。

 老未亡人宅の茶会に招かれたとき、日本の伝統工芸品である見事な鍔がいくつもクローゼットの把手がわりに釘で打ちつけられている光景を見て、江藤は怒りを覚える。夫人が以前高名な経済学者の夫とともに日本を訪れたときに購入したものだそうだ。原爆製造のマンハッタン計画で重要な役割を果たした物理学者を紹介された江藤は、ずらりと並んだ釘付けの鍔の前で、原爆製造の当事者と歓談することになる。もちろん個人的な恨みなどないのだが、それは江藤にとって苦痛のひとときだった。

 この未亡人と付き合いがある別の老未亡人は、真珠湾攻撃は卑劣だという彼女の嫌悪感を、江藤夫人に対し食事のたびに3日連続で力説し続けた。江藤によれば、老婦人の恩着せがましい親切心で、道徳的に劣等な野蛮国民を善導してあげようという善意の発露であったそうだ。江藤夫人は老未亡人が思っていたような従順な日本人形ではなかった。大喧嘩になったようだ。「収容されていた婦女子の半数以上が死んだ、北鮮の収容所から脱走してきた家内に、戦争が道徳的意志の表現だという神話が通用するはずはなかったからである。」(同書)

 

 プリンストンの知的風土は、江藤にとって、ある意味では東京のそれより自由であった。米国批判イコール反米と考える事大主義者もいなかった。

 

 私の印象では、米国人は、占領時代に自分の手で移植したはずの戦後日本の「民主主義」を、肚の底では当の日本の「民主主義」擁護論者ほど信用していないように見えた。これは、彼らのいわゆる“Democracy”が、普遍的理念であるよりさきに、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」の別名として、ほとんど無意識のうちに、むしろ感覚的に理解されていることを思えば当然である。「ジャパニーズ・ウェイ・オブ・ライフ」が、彼らの「ウェイ・オブ・ライフ」と似ても似つかぬものである以上、異質の「ウェイ・オブ・ライフ」によって生きている日本の知識人たちが、「民主主義」擁護のための、しかも反米闘争に立ち上がる、といっても、米国人に話が通じにくいのは、あながち無理はなかったのである。     

 つまり、“Democracy”とは、米国人にとっては他の何であるよりさきに、彼らのナショナリズムの象徴であった」(同書)

 

 理念としての「平和主義」と「民主主義」を掲げる戦後日本の国の基礎は経済成長であり、そこでは国家意識が稀弱であった。

 

 もし「近代化」というなら、「近代」の意識と「統一国家」の意識が不可分であることを、つとに歴史家は指摘している。国家意識の稀弱化の上に進められる「近代化」とは、したがって片輪な近代化でなければなるまい。さらに、戦後日本の「平和主義」と「民主主義」は、一面疑いもなく普遍妥当な理想であろう。が、半面それが連合国の戦後の極東政策によって方向づけられて来たことも、動かしがたい特殊な歴史事実である。 

 いずれにせよ、二年間の米国生活を通じて、私は戦後の日本をきわめて異常な状態にある国とながめざるを得なかった。それは国家であることをためらっている国家であり、民族の特性を消去することに懸命になっている民族である。(『国家・個人・言葉』朝日新聞昭和39年6月14~16日、『著作集4』所収)                       

 

 

 昭和40年代半ばから今日に至るまで、このような時代精神に覆われた社会で暮らすのは、私にとってきわめて不快なことだった。個々の具体例などここには書かないが、日常生活の場面で、薄っぺらで紋切り型の正義感を振り回す卑劣漢に出くわすことは一度や二度ではなかった。私が日常接する人たちは、人柄が良く、学歴や社会的地位が高い人も多かったが、憲法9条のおかげで日本は平和なのだという思い込みを、空気を吸うように自明のこととしている者が大多数だった。それについてほんの1センチ考えを進めることすらしない人たちだった。不気味だった。軽薄な政治談議が始まると私は耳を塞ぎたくなった。憲法を、あるいは朝日新聞の論調を相対化して考えてみようとする者には、それだけで、「あいつは右だぜ」とレッテルを貼っていた。そういうレッテルを貼ることで、ほんの1センチ進めるべき思考を自分たちの理解のレベルにまで引きずり降ろして安心するのだ。その先に、日本の次世代がどのような苦難に満ちた運命を背負わなければならなくなるかということについて、彼らには想像力が絶望的に欠けていた(あるいは欠けている)。日本の安全保障政策に道徳的反感を示し、その先に待ち受けている巨大な道徳的悪には思いも及ばない。学校で道徳が教科化されるそうだが、今日の日本で、いったい誰がどの面(つら)下げて子供たちに道徳を教えようというのか。

 上に「昭和40年代半ばから」と書いたのは、それまでの私は学生であり、仲間たちと政治、歴史、思想などについて侃々諤々そして楽しく議論を交わすことが日常茶飯だったからだ。十人十色ずいぶんいろんな奴がいると思ったものだが、後になって振り返ると、やはり類をもって集まっていただけなのだろう。以後は上に書いたような圧倒的多数の人たちのなかで、私は政治談議には聞こえなかったふりをして、基本的に愛想よく消光してきたのだった。

 腹ふくるる思いをしながら、書物を通して出会う賢者だけが私の真の話し相手だった。江藤淳はその賢者の一人だった。

 仕事の余暇を利用した僅かな読書時間だったが、その僅かで貴重な時間をとり上げられたら、私の心は生存できなかったと思う。

 

↓(3)へ続く