月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

江藤淳雑感(4)

*** 目 次 ***

(1)

【とっちゃん坊や】

【昂然とした姿】

【適者生存】

(2)

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

【公への責任感】

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき日本の戦後民主主義

(3)

【閉された言語空間】

【親米と反米】

(4)

【平成の逸民】

【師弟】

【轟く雷鳴】

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 

(以下敬称はすべて省略する)

 

承前

【平成の逸民】

 上記『日米同盟―新しい意味付け』がそうであるように、平成期の江藤の政治評論は凡庸で退屈である。平成に入ってからも旺盛な言論活動は続き、多くの政治発言を為したが、この時期の政治評論文はほとんど読むに価しない。

 平成改元直後に江藤は大行天皇を偲び、「我ハ先帝ノ遺臣二シテ新朝ノ逸民」という言葉を思い浮かべる(平成元年1月17日読売新聞、『天皇とその時代』平成元年・PHP研究所所収)。事実平成の皇室に批判的な文章を著したこともあった。

 平成期の江藤淳の代表作は『南洲残影』(平成10年・文藝春秋、雑誌初出は平成6~10年)である。

 昭和40年代に江藤が共感をもって描いた勝海舟は政治的勝者であった。属した幕府は敗者だったが、海舟は「治者」の論理を持った政治的勝者だった。それに対し西郷隆盛維新回天の勝者だったが、明治初期の時代の政治的敗者だった。

 海舟が亡き友西郷に贈った漢詩や薩摩琵琶歌の詩句によって『南洲残影』は書き始められる。海舟もまた旧幕臣としての敗者の心の傷を持ち続けた人である。その詩歌は敗者「南洲氏」への追慕の真情に溢れた哀切なメロディを響かせている。

 西郷は「拙者儀、今般政府への尋問の廉有之…」の言葉で、必ず敗けるに決まっている戦いを始め、反乱の兵を挙げる。外国からの軽侮や士族の困窮等々、政府に尋問すべきことはいろいろあったろうが、国の崩壊を喰い止めようという勝利への意志はなく、死を賭して喰い止めようとした者たちがいたという事実を歴史に残すためにこそ西郷は挙兵したのだと江藤は見る。

 政治学者の岩田温(執筆当時は大学生)はその著書『日本人の歴史哲学 ―なぜ彼らは立ち上がったのか―』(展転社・平成17年)の中で江藤のこの書を受けて、「後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。歴史の中で自らを犠牲にしても国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそが西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではないか。」と書く。

 「敗北への情熱に取り憑かれていたかのように」西郷と私学党の兵たちは滅びていった。他にも熊本隊、飫肥隊、佐土原隊、中津隊から参加した兵も西郷に殉じて滅びた。

 城山に散った西郷は「六十八年後には日本が連合国に敗れて六年有半のあいだ占領の屈辱を嘗めることを、何一つ知る由もなかった」(『南洲残影』)が、江藤はこの必敗の戦いに立ち上がった西郷に、必敗の戦端を開いた大東亜戦争を重ねて見ている。

 『南洲残影』は編集者からの強い依頼を受けて着手した仕事だったが、西郷軍の底に流れる「全的滅亡」の調べが江藤の心の琴線に触れた。そこには、若い頃「適者生存」の「適者」たらんとして昂然と胸を張って立ち向かった江藤の姿はもうない。「治者」の論を説いて、「戦後民主主義」の欺瞞と闘った江藤の姿はない。

 昭和40年、幼少時の思い出があった大久保百人町の跡地を訪れて呆然とし、自分の戻るべき故郷はもう祖父母と母が眠る墓所にしかないと思い、拙文(2)にも引用したような、「生者の世界が切断されても死者の世界はつながっている。それが「歴史」かも知れない、と私は思った」(前掲『戦後と私』)、その死者につながる甘美な世界へ、平成の江藤は心を傾けていく。

 『南洲残影』を上梓して間もない頃、文學界平成10年6月号の『滅亡について』と題された桶谷秀昭との対談で、江藤は次のように語っている。

 

 ぼくは南洲を書いたせいなのか、いまの時代に尋問すべき相手がいるかということを考えるんですよ。かたちとしては政府があり議会があり、自衛隊へ行けば「分列行進曲」がときどき響き、国はあるように見えないこともないけれども、本当にいま日本はあるのかなあ、自分は本当に生きている人間なのかなあ、ひょっとすると幽霊ではないのかなあ、と。そんなこと二十四時間、三百六十五日思っているわけじゃないけれども、ある瞬間にふっと思うことはあるんです。あと何年か幽霊でこの世にいて、あの世に行くと生き返るのかなとか、このごろ変なことを考える。     

 自殺したいとか、この世におさらばしたいとか思っているわけでは全然ありません。いながらにして幽霊になっているものがどうやって自殺するか、こんなつらいことはないじゃないか、どうしてくれるんだ。だから、祟りとか怨みとかいうことを何とかしてくれ、と思うんですね。(『南洲随想 その他』・文藝春秋・平成10年所収)

 

 江藤淳処決1年余り前の言葉である。

 

【師弟】

 大学院を放遂された(←福田の言葉)後父親が経営する製麺会社で営業の仕事をしていた福田和也は、学生時代から取り組んでいた『奇妙な廃墟』を書き上げ上梓した(国書刊行会・平成元年)。ほとんど世間の反応がなかったのだが、この書が江藤淳の目にとまり、江藤の紹介と推薦を受けた福田は論壇デビューを果たし、一躍人気評論家となっていく。数年後に慶応大学で助教授のポストを得た(現在は教授)のも江藤の推薦によるものである。

 福田にとって江藤は大恩人である。江藤ゼミで学んだとか、江藤研究室で育てられたということではないので、狭義の師弟ではないかもしれないが、福田は江藤から厳しい叱責を受けたことも幾度かあるようで、また福田自身「江藤淳学弟」を自称しているので、事実上の師弟である。

 その福田和也江藤淳を厳しく批判した文章がある。新潮平成8年2月号掲載の『江藤淳氏と文学の悪』(『江藤淳という人』・新潮社・平成12年所収)である。

 福田によれば、江藤は人生を喪失の連続と見ているから、「獲得」を求めない。「獲得」を目的とする豊かな「戦後社会」は、江藤の喪失したものへの忠誠心から、否定されなければならない。江藤の批評に治者としての自覚はあるが、「獲得」の試みは排除され、愚劣や悪行は抑圧される。治者としての自覚は述べても、ドストエフスキィの「大審問官」のような悪が一片もない。江藤の批評に欠落しているものは「信」と「賭け」である。例えば万分の一の可能性に賭けた三島由紀夫の決起は、江藤においては「病気」としてしか理解されない。江藤に喪失の悲しみはあるが、「生存」を脅かすものに対する大きな「怒り」がない。

 福田は次のように論考を締め括る。

 

 江藤氏の批評は、「悪」を受けつけない。それは、悲しみに満ちているが、また驚く程健全で、堅実なものである。このことは、氏が対面してきた戦後の文学が、ある意味で「不健全」であったことを逆に示すものだ。

 だがまた、戦後文学には、川端康成三島由紀夫といった少数の例外を除けば、悪も欠如していた。その点において、戦後もまた善良な時代と云えるかもしれない。それは「喪失」の時代であったが、また「平和」と「繁栄」の時代でもあった。                      

 だが、善良きわまる「生存」において、人は「大惡人」(下記引用者注)として笑い得るのだろうか。私にとって、今日批評的であるという事は、そのように人が笑い得るという事を「信」じるという事に他ならない。(同書)                               

 (引用者注)虚子の句「初空や大惡人虚子の頭上に」による。

 

 これは福田和也が批評家として江藤淳から自立するために、相当の覚悟を決め、渾身の力をこめて書いた文章である。江藤への深い尊敬と理解があるからこその、核心をついた批判が展開されている。

 この新潮2月号が発売される前、編集長が刷出しを持参して江藤邸に挨拶に出向いた。江藤はそれを読んで、福田に手紙をしたためた。その私信を、福田は江藤没後に遺族の了承を得て公開している(文學界平成11年9月号、前掲『江藤淳という人』所収)。

 端正な文章で綴られた丁寧な手紙である。「あなたが批評家としてここまで大きく成長されたことが嬉しくてなりません。」という一文が半ばに置かれている。行間から伝わってくる江藤の気持ちが読む者の心を打つ。便箋にすれば3枚ぐらいだろうか、最後に「虚子に負けぬ位長生きして、「大悪人」になってみたいものです」と締め括られている。

 2か月後、江藤と福田は別の雑誌の対談で会うのだが、江藤は福田を完全に対等に遇した。がっぷり組んだ議論をし、福田の感激は頂点に達する。

 

【轟く雷鳴】

 江藤淳の絶望は平成の日本への絶望でもあった、などということを安直に言うと、浅薄なプロパガンダだとの誹りを免れないだろう。

 江藤の最晩年の約1年間は悲痛である。脳腫瘍で倒れた夫人の看病と葬送、そして自らも重病を負いながら喪主としての務めを果たし、すべてが終わってから一時は危篤状態に陥る。回復後も相次ぐ病魔に襲われ、孤独で不如意な日々が続く。これらは江藤の私ごとである。だが江藤の出発点でもまた、私ごとの喪失の悲しみと公への悲しみは重なっていた。

 平成の日本への絶望感もあったろう。まだ夫人が元気で私生活に不幸の影がさす前から、既に江藤の心は「全的滅亡」の調べに惹かれていた。

 江藤の「私」と「公」はいつも渾然一体である。

 

 拙文で先に述べてきたような「液状化し腐臭を放っている言語空間」は、江藤の死を「無残に無残に消費」(福田和也の言葉)した。

 福田は怒る。「週刊誌のいくつか、というより殆どは、「殉愛」「看取り燃えつき」などという下卑た言葉を用いて、氏と夫人の関係を現代芸能報道の水準に引き下ろしてみせ、大衆という言葉すら勿体ないような愚民たちの理解の枠に入れた。その事を強く嘆いていたところ、友人が云うには、実際にテレヴィの芸能番組に取り上げられて、入院先の病院まで取材されていたという事であった。」(『批評の煉獄』・新潮平成11年9月号、前掲『江藤淳という人』所収)さらに福田は、追悼文が溢れかえった文壇論壇の精神の弛緩した論者たちの惨状を嘆き、最後に、江藤と付き合いがあった保守系全国紙が社説などで江藤の死をプロパガンダに利用し、「氏の思惟を最低の次元に引き下ろす事を喪の敬虔さもまったくなく敢行」(同書)したことに憤怒を炸裂させている。

 私たちはそのような時代を生きているのだ。

 

 平成11年7月21日の夕、梅雨明け前の鎌倉を襲った集中豪雨とともに激しい雷鳴が轟くなか、江藤淳は端正な筆跡で遺書をしたためた。

 翌22日早朝、私は枕元のラジオで江藤淳自決のニュースを聞いた。衝撃が走った。

 遺書はもちろん親交のあった人たちに向けて書かれたものだが、最後の一文、「乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」は一読者の私の心にも届いている。(了)

 

 

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 小谷野氏の『江藤淳大江健三郎』は、若い頃「遠く仰いできた批評家」だった江藤淳を、「そんなに偉かったのかという疑念から」低く評価しなおすにいたる著者の考察過程が書かれている。

 私はおもしろく読んだが、江藤ファンはこの書に反感を持つかもしれない。あるいは、江藤淳をほとんど読んだことがない者がこの書を読むと、「エトージュンて、何かヤーな感じぃ」と思う人も出てくるかもしれない(いるだろう)。

 江藤淳にかぎらず何事につけ、受け止め方は人それぞれのものである。その受け止め方への賛否は別にして、敬意を払うに価すると思えば、真摯に耳を傾ければいいのである。人の意見を鵜呑みにして「何かヤーな感じぃ」としてしまうのもあまり賢明な態度とは思えない。

 この書は江藤淳大江健三郎それぞれの詳細な評伝であると同時に、二人の確執をも描き出した労作である。それだけでも読むに価するが、さらにこの書は小谷野氏の「私小説」として読むことができるので、そこがおもしろい。小谷野氏の江藤淳の描き方には、ほとんど悪意を感じる部分もある。そういうところは、私は江藤淳をというよりも、小谷野敦を読んでいるのである。

 拙文を書き始めたとき、「この書は小谷野敦私小説である」と、どこかで書くつもりだったのだが、書いている途中で日経新聞の書評(4月12日)に先を越されてしまった。「俺が先だ」と叫んでも、それを客観的に証すすべはないので、本文中ではなく、ここで二番煎じを供することにした。ただし私は日経のその書評の見出しをチラッと見ただけで、本文は1行も読んでいない。このPCを閉じてからゆっくり読むつもりである。

 

 拙文を書いている途中で、江藤の文学論を含めて書き進める誘惑にかられた場面が何度かあった。江藤の政治エセーと文学論は不可分のものである。だがその誘惑にかられて文章をふくらませていくと、全体があまりにも長くなりすぎるので、自制した。心残りではあるが、いずれまた気が向いたら別の機会に、ということにする。気が向くことがあるかどうかは、今は皆目分からない。