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月下独酌

書き手:吉田勇蔵  diary「日居月諸」もご高読賜りたく→http://y-tamarisk.hatenadiary.com/  twitter@y_tamarisk

平和安全法制をめぐる大衆世論の危うさ(1)

長くなったので2分割する

***** 目 次 *****
(1)
【法案反対の“空気”】
【“空気”増幅装置としてのマスコミ】
【“空気”に便乗する女性誌】
(2)
【冷戦終結後の日本の安全保障政策の概観】
【三つの選択肢】
【日米同盟のアポリア
憲法上の問題について】
【過去を忘れた人間の無邪気さ】

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【法案反対の“空気”】
 平和安全法制整備法案の衆議院での審議と採決を経て安倍内閣の支持率は大きく落ち込んだが、直近では回復のようすを見せている。世論調査に表れる数字は、ちょっとしたことで上がったり下がったりで、この数字の変動の様相は世論のいい加減さ、無責任さの証しともいえる。
 今の「戦争法案反対」だとかの大騒ぎも、一般大衆の間では、来年の参院選の頃にはけろっと忘れられている可能性もなきにしもあらずだ。
 だが、ここ2か月余りの間に噴出したマスコミの不公正な手法による煽動と、それにたやすく乗せられた大衆多数派の思考麻痺及び付和雷同の有り様はけして忘れてはいけない現象だと考える。なぜなら、このような思考麻痺と付和雷同の性向をもった大衆とそれを自在に操るマスコミが、これからの日本国のあり方、特に憲法について考えねばならない必須の要請を前にして、頑強な障害となって立ちはだかるに違いないからである。憲法改正について賛成・反対を言う前に、冷静に議論を重ね、その議論を通して国民多数の理解を深めていくということが日本ではほとんど絶望的に不可能だろうなと思わざるを得ない、昨今の言語状況である。
 特定秘密保護法案の閣議決定(2013年10月)前後から衆参両院での審議を経て成立するまでの1か月半ほどの間にも、今回と相似形のマスコミと世論の騒ぎがあった(相似形であってサイズは今回よりも小さい)。
 特定秘密保護法が施行されると、言論の自由がなくなり、報道は規制され、作家は自由に小説を書くことが困難になり、一般の国民は旅先で風景写真を撮っただけで逮捕されることにもなりかねないなどという悪質なデマが各メディアでまことしやかに流された。最後の例は、お笑い芸人がネタで言ったのではない。報道ステーションでコメンテイター(学者)が真顔で宣もうたのである。彼が「リベラル保守」を高らかに宣言し、朝日系メディアで重用され始めた頃のことである。
 スパイ天国といわれている日本に必要なのはスパイ防止法であるが、「諸国民の公正と信義に信頼」(日本国憲法前文)することをモットーとしている日本ではその立法が困難である。中曽根内閣で法案化の意図があったが、マスコミと野党(及び与党の一部)の猛反対で閣議決定は断念し、議員立法案として上程されたものの廃案となり、立法化が実現されないまま今日に至っている(但し自衛隊法の改正により採り入れられた部分はある)。特定秘密保護法は本格的なスパイ防止法が有するスパイ活動抑止力には程遠い効果しか持たないささやかな一歩であるが、日本の安全を同盟国との信頼関係のもとで維持していくのに欠かすことのできない一歩である。「知る権利を守れ」とか「戦前に戻るのが怖い」と言って反対した人々は、日本と同盟国との信頼関係など知ったことではなかったようである。
 そしてやって来たのが、現在進行中の平和安全法制整備法案をめぐるマスコミと世論の狂乱だ。
 そこには日本の大衆の政治行動の愚かさが如実に顕われている。ここでいう政治行動とはデモや集会に参加することだけではなく、ぼんやりとした政治的感情を世論としてマス化してしまうような、社会全体を覆っている“空気”の形成をも含んでいる。むしろ後者の方が重大で深刻な意味を持っている。振り返ってみると、小泉内閣発足時にも、鳩山(由)内閣発足時にも、それを喜ぶ濃密な“空気”が世間を覆い、同調しない者は、「まさか!」と珍獣を見るような視線に晒されたものである(当時私は珍獣だった)。
 先月ラジオの朝の番組でパーソナリティ氏が「戦争法案を平和安全法制と言い換えてみたり、どうも最近の安倍さんはおかしい」と言っているのを聴いて、思わず動揺した。散策中のことで、たまたますれちがった犬が怪訝な面持で私を見上げた。これではまるで「戦争法案」が正式名称みたいではないか。「戦争法案」とは日本共産党がつけた仇名で、それも90年代の周辺事態法の頃から使っている語だ。今回それがTVの出演者などによって拡散されているうちに、正式名称であるかのように思い違いをする人たちも出てきたのだ。この“空気”が蔓延するなかで、先のパーソナリティ氏のような倒錯した発言が出てくるのであり、放送だから、それがさらに“空気”を増幅していく。
 芸能人の法案反対発言も目立っている。芸能人のなかには、以前から政治発言をしたり、共同声明書の類いに署名したりする人たちは何人かいた。だが、多くの人気芸能人は政治的立場を明らかにしないことを得策としていた。人気アスリートも同じである。党派性を明らかにすることは、幅広く国民的人気を獲得しあるいは保っていくうえでマイナスになると判断するからだろう。昔、まだ20代だった長嶋茂雄選手が「社会党が政権をとると野球ができなくなる」と発言し物議を醸したことがあった。それに懲りて、以後長嶋氏は今に至るまで政治発言は一切していない。王貞治氏や松井秀喜氏やイチロー選手や浅田真央選手が政治発言をするのを聞いたことがない。彼らは広汎な国民的人気に支えられていることを知っているからだろう。
 ところが平和安全法制をめぐっては、今までそのような広汎な国民的人気を大切にして党派性を明らかにしなかった芸能人が続々と発言するようになってきた。渡辺謙笑福亭鶴瓶長渕剛中居正広・・・等々の各氏である。彼らにとっては「戦争法案」に反対することは党派性によるものではなく、ほぼ国民の総意だという安心感があるから、その“空気”に便乗しているのである。
(注)なかには“空気”に逆らった発言をする芸能人もいることは承知している。

 

「一人も兵士が戦死しないで70年を過ごしてきたこの国。どんな経緯で出来た憲法であれ僕は世界に誇れると思う、戦争はしないんだと! 複雑で利害が異なる隣国とも、ポケットに忍ばせた拳や石ころよりも最大の抑止力は友人であることだと思う。」(渡辺)
戦争放棄っていうのはもうこれ謳い文句で、絶対そうなんですが、9条はいろたらあかん。こんだけね、憲法をね、変えようとしていることに、違憲や言うてる人がこんなに多いのにもかかわらず、お前なにをしとんねん! 民主主義で決めるんなら、違憲がこれだけ多かったら、多いほうを採るべきですよ。こんなもん、変な解釈して向こうへ行こうとしてるけど、絶対したらあかん」(鶴瓶
負の遺産原発事故)を残しておきながら、そのことにきちっとケリもつけないくせに、次のこと(平和安全法制)をやっていこうとする俺らの大将(安倍首相)、ちょっと違うんじゃない」(長渕)―カッコ内は引用者による付記・次も同じ
「(憲法9条のおかげで)70年間日本人が戦地で死んでないのはすごいこと」(中居)

 

 ほとんど無内容である。誰かが言った陳腐な言葉の羅列である。70年間戦死者ゼロという事実誤認はさて措く。逐一反論することが目的ではない。
 これらは明瞭に党派性をもった発言なのだが、発言者自身は党派性のない普遍的な真理を語っていると思っているのである。世の中全体にそういう“空気”が蔓延してしまっているからである。そしてこの人たちの持っている影響力の大きさで、“空気”はさらに増幅していく。事実これらの発言には「感動しました!」「素晴らしい!」「よくぞ言ってくれました」「尊敬します」等々の賛辞が続々と寄せられているのである。ただしネット上ではこれらの発言に対する賛否は拮抗している。それを見た発言者が、自分の言葉の党派性を相対化して自覚できる機会となればいいのだが。

 

【“空気”増幅装置としてのマスコミ】
 マスコミの役割は、政治、経済、社会、その他の事象を国民に伝え、考える材料を豊富かつ公正に提供することである。考えるための参考として、いろいろな立場の論客たちの主張を伝えることも必要である。
 新聞等活字メディアに要求される公正さは、かならずしも不偏不党を意味するものではない。各紙あるいは各誌それぞれに自社の党派性や主張があってよい。自社の主張は主張として堂々と開陳すればよいが、報道素材の取捨選択等にあたっては公正さを保たなければならない。世論を自社の主張に即して誘導するための印象操作や、不都合なニュースの冷遇あるいは無視などあっていいものではない。事実の歪曲にいたっては、あるまじき不正行為である。
 TVやラジオの放送メディアには、活字メディアとは違って、不偏不党の立場が法的に義務づけられている(放送法第1条2号及び第4条1項2号・4号)。新聞や雑誌の読者には“読む”という能動性があるが、放送メディア特にTVでは受け身の視聴者も多く、そこへ偏った方向からプロパガンダめいた放送が垂れ流されると、民主主義の健全性を損なう危険があるからである。
 その危険は充分に現実化している。放送法第4条の「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などの規定に対して、番組によっては制作者がなめてかかっているとしか思えないものもある(第4条に罰則規定はない)。
 なお付言するが、私のTV視聴時間はごく少ない。映画やコンサートの番組を録画してたまに鑑賞するほかは、ニュースを少々見聞きする程度のものである。ニュースショー番組については、報道ステーションを番組開始以来通算合計して60分少々見たぐらいである。ワイドショーなどはもう久しく見ていない。ネット界隈で悪評高き「サンモニ」や「ひるおび」などは1秒たりとて見たことがない。不愉快だからである。ゲテモノ料理から目をそむけるのと同じ心理である。
 だがワイドショーの類いについては、番組名はいちいち知らぬが、例えば人の家で、例えば床屋で、例えば大きな駅の待合室で等々、司会者やコメンテイターの言葉が耳に入ってくることはときとぎある。あとは見た人からの風聞ぐらいのものである。
 この程度の材料でも、TVは明らかに世論を一定の方向に誘導しようとしていると判断できるのである。あからさまなプロパガンダでなくとも、印象操作で大衆の“空気”を操るのはTVの特技である。ニュースは一見公平に報道しているようでも、編集の仕方 ― 何を伝え何を伝えないかという取捨選択いかんによって大衆の“空気”を操ることができる。街頭インタビューでどのような「声」を選んで放送に乗せるかという判断ひとつで世論の風向きを煽ることができる。
 平和安全法制整備法案を衆議院本会議で可決した2日後のTVで、街頭インタビューの場面を見た。中年男性が「安倍さんひとりで勝手にやってる感じ。全然説明されてないし、知らされてない」と答えていた。法案について知りたいという意思がこの人にあるのなら、新聞をしっかり読むなり、ほかにもいろいろな方法があるのである。それをしないで、流行り言葉をマイクの前で言っているだけである。それが放送に乗せられて、「国民が知らされていないうちに勝手に事を進めている。独裁者だ!」という“空気”がさらに増幅していくのだ。“空気”は事実から離れて、事実を嘲るように蔓延していく。それを煽っているのがTVである。
 7月13日に衆議院の平和安全法制特別委員会で中央公聴会が開かれた。5人の公述人(学者・評論家)の法案への賛否の意見が割れた。だからこそ、五氏の公述内容を翌日の新聞でよく読めばいいではないか。「法案について何も知らされてない」と合言葉のように言っている人たちは、この賛否両論を読むだけでも法案への理解の助けになるではないか。
 この公聴会の模様を放送はどのように伝えたか、あるいは伝えなかったか。
 その日私は移動中の車の中で、ラジオ(ニッポン放送)の午後5時のニュースを聴いた。公述内容のそれぞれの勘所を、5人の肉声の録音をまじえてアナウンサーが簡潔に説明していた。短時間のニュースなのに、公平によくまとめられた編集だった。
 帰宅後NHKTVの午後7時のニュースを視聴した。冒頭で特別委員会の遠景画像が流れて、中央公聴会が開かれたというアナウンスがあった。それだけである。公述人が語った内容の要約など何もない。開かれたというアナウンスがあっただけである。全部で10秒あったかどうか。映像はすぐに切り替えられ、「安保関連法案に反対するママの会」が発足したというニュースになった。こちらにはずいぶんと長い時間が割り当てられ、記者会見での代表の発言、会場の参加者へのインタビューなどが丁寧に伝えられた。
 いったいこれは何だ。法案の内容を国民はよく理解していない、なのに政権は採決を急ぐのかという印象報道を散々やっておきながら、肝心の法案の問題点(賛否両論)を国民がせっかく理解しようとするチャンスをこんなに露骨に潰そうとしたのだ。国民が冷静に考えるようなことがあってはならないという意図が、NHKでこれほど露わになることは珍しい。普段のNHKはもっと巧妙に不偏不党の装いをこらしているものだ。そのうえで隠微に世論誘導を進めるいやらしさがあるのだが、この日のあられもない姿には驚いた。何を焦っているのだろうか。5人の公述人の賛否両論の要約を公平に伝えることすら忌避したのだ。岡本行夫公述人や村田晃嗣公述人の賛成論は、理性的で説得力を持っていた。それがいけなかったのだろう。
 NHKは午後9時のニュース番組では、たぶん中央公聴会の内容について伝えたのだろうと推測する。私はTVには少ししか時間を割かないので、9時のニュースは見ていない。だが別枠を使って「ちゃんと報道しましたからね」というアリバイ作りをするのはNHKの常套手法だから、9時には報じたのだろうと思う。より広い層が視聴する7時のニュースではネグったのだ。
 NHKTVの各時間帯でのニュースのうち、最も広い層に見られているのは午後7時のニュースだろう。これをほぼ毎日観ていても、法案の内容や問題点はよく分からない。小さな子供を育てているお母さんたちの不安や、学者たちの反対声明や、国会前での反対集会の様子や、集会参加者へのインタビューや、国会前での瀬戸内寂聴氏のアジ演説や、別の日には村山富市氏のアジ演説やらが伝えられ続けてはいるのだが、法案の内容がよく分からない。「7時の視聴者には“理”よりも“情”だ。小難しいことは9時に放り込んでおけ」という編集方針なのだろうか。「国民のみなさま、なるべく考えないでくださいね」というのが“みなさまのNHK”からのお願いなのだろうか。
 安保関連法案についてTVの出演者が反対の意見を主張するのはおおいに結構なことだ。一方に偏らず、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」(放送法第4条1項4号)かぎりにおいてだ。この規定を守らない番組あるいはTV局もあるのだが、そのことと同じぐらいに見逃せないのは、上に述べてきたように、「街頭の声」や「変な編集」で視聴者の思考麻痺を促進するような報道のあり方である。その思考麻痺につけ込んで、「戦争に巻き込まれる」「徴兵制の不安」「独裁者」等々のデマが闊歩しているのだ。
 例年8月は「戦争の悲惨さ」「平和の尊さ」がメディアで繰り返し強調される月である。もちろん戦争の悲惨さは語り継がねばならないし、平和が大切であることはいうまでもない。だがこれがポエムとしてうたわれるだけで、そのポエムが現実の政治の役割を蔑視することにつながるのなら、かえって世界は平和を壊す方向に向かってしまうだろうことを忘れてはならない。
 例えば繰り返される核廃絶の訴えは、政治の役割を侮蔑する方向に進んでいないか。原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で長崎市長や被爆者代表は、核廃絶を訴えるスピーチに国会で審議中の安保関連法案への批判を織り込んだが、ポエムによる政治批判の典型である。
 悪魔の兵器を生み出してしまった人類は、全員が記憶を喪失しない限り、もうけして核兵器を廃絶することはできない。再び大惨禍を招来せしめないために、いかにして核戦争を回避すべきか、テロリスト集団に小型核兵器を渡らせないか、諸国家の外交政策に叡智を集めるべきであろう。歌をうたっている場合ではないのだ。
 8月9日のNHKTV午後7時のニュース、長崎市の平和祈念式典のニュースを伝えたあと、画面は市内の繁華街で核廃絶の署名活動をしている人たちの映像に変わった。それを伝えるアナウンサーが「なかには署名せずに通り過ぎる人もいました」と言った。アナウンサーの表情や口調には「なさけない、残念なことだ」というニュアンスがありありで、無関心な人々が増えていることを嘆いているようであった。もし私がその場にいたなら、必ず署名を拒んだだろう。なぜなら「核廃絶」というポエムがもたらしている“空気”としての反核運動に反対だから。全員が署名すべきだと言わんばかりのNHKの報道姿勢は、反核全体主義に陥っている。


【“空気”に便乗する女性誌】
 平和安全法制への賛否の意見の割合は、男女によって異なっている。法案が衆議院で可決された直後、7月17、18日に実施された毎日新聞の世論調査によれば、この法案への賛成が27%、反対が62%である。これを男女別に見ると、賛成は男39%、女19%で、反対は男55%、女67%である。女性の方が法案により否定的である。安倍内閣への支持・不支持の回答にも同じ傾向が表れている。
 原因はいろいろ考えられるが、TVのワイドショーや夕方の娯楽番組化したニュースショーの視聴者は女性が多いということも大きな要因だろう。それ以前に女性特有の政治に対する感情というものがあるとも考えられる。もちろん個々人は様々で、明晰な論理をもって政治を考えている女性学者や学徒も少なくない。だが他方には、全日本おばちゃん党代表代行の谷口真由美氏が言うように、「“野生の勘”で「安倍さん、なんかおかしい」とだけ思っている」(『女性セブン』8月20日・27日合併号)女性も多いのだろう。
 このような女性たちの「“戦争法案”反対」感情に便乗しているのが直近の女性誌である。
 TVには大衆世論をある特定の方向に誘導しようとしている悪意が明らかにある。一番組の制作現場には、浅薄な正義感で使命感をもって偏向番組に携わっている人も多いのだろうが、全体の傾向を鑑みると、制作現場を超えたところに確固とした「意図」が存在していると思わざるを得ない。それが誰の意図であるかを、私は知らない。
 女性誌の動機はもっと単純である。女性誌の出版社は世の“空気”に便乗して利を得たいだけである。
 “便乗”というより“悪乗り”といったほうがふさわしい記事もある。女性誌のなかで発行部数一位を誇る『女性自身』(光文社・38万)から見ていこう。

(注)以下( )内の数字は㈳日本雑誌協会が公表している印刷証明付発行部数で、ここでは1万未満を四捨五入した。調査期間は2015年4~6月で、1号あたりの平均印刷部数である。発行部数に対する実売率は不明である。
ちなみに週刊誌総合では一位が週刊文春(68万)で、週刊新潮(54万)、週刊ポスト(40万)がこれに次ぐ。

 

 『女性自身』8月4日号は3人の論客の主張に1ページずつを割り当てている。
 瀬戸内寂聴氏は、この法律は日本国民を世界中で死なせ国を滅ぼすと煽動し、“戦争法案”を押し通した安倍首相は美しい憲法を汚した、世界の恥だ、となじる。1ページ一貫して無内容である。コメントに値しない。
 赤川次郎氏はかつて何年もの間文壇長者番付の一位を独走していたベストセラー作家だ。読みやすい軽妙な文体のミステリーが当時の若い女性を惹きつけた。今の中高年が当時の読者層で、現在の『女性自身』の読者層に重なる。戦後生まれの氏は親から聞いた戦争の悲惨さを語り、安保法案が通ってしまったことで、「暴走する安倍政権」を止めるため、これからも声を上げ続けなければならない、と語る。戦争の悲惨さと安保法案にどのような関係があるのか不明である。「暴走する安倍政権」とは何を根拠に言っているのか不明である。氏は世間の“空気”に乗ってものを言っているにすぎない。
 内田樹氏は売れっ子の哲学者で人気絶頂の論客だ。赤川氏とほぼ同世代である。氏は集団的自衛権の行使容認とはアメリカから戦争の負担を分担させられるものにすぎず、日本が戦争に巻き込まれるリスクが高まると言い、この法案は憲法違反であると言う。この点については本稿の後半で考察するので、今は措く。氏の他の場所での発言にもしばしば見られる「安倍憎し」の感情がここでも爆発している。安倍首相は「いくら国民が嫌がることをしても処罰されない自分の権力に深々と酔っている」のであり、安保法案で「もたらされるのは安倍首相の個人的な快楽だけ」と断定する。大嫌いな人間をののしって自分の溜飲を下げているだけである。私的憎悪感情から妄想したデマをマスメディアで流してはいけない。この人の品性の問題である。
 『女性自身』のこの号のトップ記事は「美智子さま」である。「私は“戦争の芽”を摘み続ける!」というタイトルである。皇后陛下のおっしゃりもしない言葉を勝手に捏造しているのだ。してはいけないことである。昨年10月のお誕生日でのお言葉に似た言い回しがなくはないが、こんなアジテーションのようなことはおっしゃっていない。お言葉の改竄というより捏造だ。
 次いでリードを全文引用する。「戦後70年という節目の年に、日本の“平和を揺さぶる”法案が成立しようとしている。天皇皇后両陛下はこの異常事態をどのようなお気持ちでご覧になっているのだろうか」
 記事本文では、7月16日両陛下の福島ご訪問に同行した皇室担当記者の「美智子さまが以前よりほっそりされたように見えました」という印象を紹介し、「前日の“強行採決”のご心痛もあったのかもしれません」と推断している。明らかに度が過ぎた悪乗りだ。皇室が政治の諸党派から超然とした位置にあり、その立場を守らなければならないことは誰よりも両陛下がご存じである。たかが一議案の採決の結果に心を痛めたりするわけはないのであり、勝手にこんな下卑た忖度をされては、それこそご心痛いかばかりかと案じる次第である。
 悪乗りをして皇室の政治利用をしているのは『週刊女性』(主婦と生活社・23万)も同じである。同誌7月28日号は元共同通信記者橋本明氏の“忖度”を記事中で紹介している。
 橋本氏は語っている。「両陛下は、現在の安倍晋三内閣が集団的自衛権の限定的な行使を容認し、日本が再び海外で戦争をする可能性を高めていることに、非常に抵抗感があると思います」そしてもし安保法制が成立すれば、その法律に御名御璽(署名・押印)を入れなければならなくなるから、「陛下は現在、たいへんお苦しみで、美智子さまも憂慮されていると思います」
 女性誌を皮切りとして、皇室の政治利用がなし崩しに進んでいるのは大変危険な予兆である。
 この問題にこれ以上深入りすると脱線になるのでここまでとするが、「それは違います」という反論や弁明の方途をいっさい持たない人の心の内面について、こういう言いたい放題の利用をするのは、皇室への尊崇の念の問題以前に、人として卑怯である。
 『女性自身』は3人の論客のほとんど無内容な記事と皇后陛下の政治利用があるだけだが、『週刊女性』は法案の内容や憲法について考察した記事があるだけましだといえなくもない。終始一貫左側に偏っているのではあるが。
 『週刊女性』の7月14日号は10ページを使って、「戦後70年、日本は戦争をする国になるの?」という特集を組んでいる。そのメインタイトルが「「戦争法案」とニッポンの行方」である。「これは“戦争法案”なのだ」という決めつけから始まっているのである。学者やジャーナリストのコメントを引用しながら、法案が違憲であること、戦争に巻き込まれる危険があること、将来は徴兵制の可能性があることがほとんど断定的に書かれている。「首相が目論む改憲Xデー」という記事もあり、改憲が議論以前に自明の悪であると印象付けられている。編集長の話ではこの号の実売率が平均よりも3~4ポイント上がり、追加注文もあったそうだ(朝日新聞デジタル版8月10日より)。以後『週刊女性』は毎号同じテーマでの特集を続けている。
 『女性セブン』(小学館・38万)の8月20日・27日合併号は「70年目の夏に考える日本と戦争」と題する7ページの特集を掲載している。『女性自身』や『週刊女性』に見られるようなあられもない偏りはなく、中立的立場で編集されている。憲法の歴史、中国や北朝鮮の脅威、日米安保条約の意義と限界、自衛隊の役割と限界などのテーマが簡潔にまとめられている。ここまで挙げた3誌のなかではいちばん冷静な記事といえる。徴兵制の不安については、国民主権の民主主義国家には国民に権利とともに義務があるということ、(さすがに「国防の義務」という語は避けているが)「国を維持するために守る」義務があるということが評論家(防衛省OB)のコメントの形で説明されている。だから即徴兵制だと短絡する人がいれば、それは誤解であるが、このコメントで語られていることは多くの日本人が忌避している政治学の初歩である。
 左でなければ右だということではない。『女性セブン』はニュートラルである。この特集の締め括りにある一文を引用しよう。「今、私たちが議論しなければいけないのは、“日本が戦争できる国になってしまってもいいのか”という問題以上に、“日本は戦争、つまり軍事力とどうつきあってきたのか”、そして“これからどうつきあっていかなければいけないのか”ということだろう」― このまっとうな問題意識が、はたしてTVのワイドショーやニュースショーにあるのだろうか・・・・・私は見ていないのでよく分からない。
 以上3誌の読者年齢層は主として中高年である。なかでも『女性自身』は高齢の読者が多い。『週刊女性』は20代までの広がりがある。(毎日新聞社「読者世論調査」等の資料による)
 10代半ばから20代初めの女性を主たる購読層としている雑誌で、憲法や戦後政治の諸問題を取り上げているのが『セブンティーン』(集英社・23万)の9月号である。ちなみに誌名のSeventeenとは17歳という意味ではなく、thirteenからnineteenまでの「7つのティーン」という意味だそうである。
 『セブンティーン』は全ページの大半でお洒落関係その他乙女チックな写真が満載されているカラフルな雑誌で、上記の記事は後ろのほうの目立たない場所にひっそりと置かれている。活字は極小で、私は眼鏡をかけてさらにルーペの力を借りてようやく解読できた次第である。読者の少女に老眼の心配はないが、それでもこの2ページ余りを熟読しようとする者は、かなりの問題意識を持っている人に限られ、読者全体のうち2、30人に1人いるかどうかというところだろう。
 で、それなりの問題意識をもって読んだ読者は拍子抜けするのではないだろうか。知識欲から読んだ少女にとって、あまり勉強にならない内容だからである。
 記事は憲法学者の木村草太氏(35歳)と10人の少女(高校生9人、大学生1人)によるゼミナールの記録である。木村氏は先述した衆議院特別委中央公聴会での公述人の1人である。この記事の後書きのコラムで木村氏が書いているように、氏は1945年を日本の歴史の始点とし、それ以前を過ちの時代と捉える史観の持ち主である。
 ゼミは「戦後70年」「憲法」「沖縄の米軍基地」等8つのテーマについて、先ず木村氏が問題提起(「木村先生からの考えるヒント」)をし、それについて生徒たちが感想を述べるという形で進められる。木村氏は努めて中立的に「ヒント」を提起しようとしたのだろうが、事実上自分の史観(上記)で生徒たちを誘導しようとする結果になっている。子供相手に堪え性のない人である。生徒のほとんどはその誘導に忠実に追随し、迎合している。いちいち列挙するときりがないので、一つだけ例を挙げるにとどめておこう。
 憲法9条をテーマとした箇所での「木村先生からの考えるヒント」にはこう書かれている。「憲法9条について“外国に守ってもらいながら日本だけ安全なところにいるのか”と言う人もいます。けれど、紛争地域に対してできることは武力行使だけではない。この9条を守り抜くことによって、武力以外の国際貢献について考えていかなければならないのです」
 この“ヒント”に対する生徒たちの発言は「今までは、単に戦争はいけないという理由で改正に反対していたが、今日の話を聞いて、違った視点で考えることができた。やはり9条は変えるべきではないと思う」(高3) 「私は今まで、海外から武力で守ってもらうのに日本は武力行使をしないというのはおかしいと思っていた。けど、日本なりの支援の仕方があるということを知ったので、憲法9条への考え方が変わりました」(高2)という具合である。そして次の改憲をテーマとした箇所では、「実際変えたいと思っている人は国民にはなかなかいないと思う。もし戦争がどっかで起きて、それに自分が行きたいかって聞かれたら、行きたくないですし、憲法を変えないでほしい」(高1) 木村コンダクターに「よっ、マエストロ!」と声のひとつも掛けたくなってくるのであった。
 私はこのゼミの記録を読んでいて、7月16日に放送されたNHKTVのローカル番組「首都圏ネットワーク」を思い出した。番組は千葉県のある高校での社会科授業を紹介していた。題材は安保法制で、生徒どうしの議論を中心に進められる授業だ。教師は問題を投げかけるが政治的中立を厳守し、生徒たちが自分と異なる意見に出会うことで、それによって自分の考えを深めるきっかけをつかむことを授業の狙いとしていた。「異なる意見に敬意を払う心」と「考える力」を育てようとする優れた授業だと思った。
 木村草太氏の著作を読んだことはないので、学者としての氏への感想は何もないが、教育者としてはこの千葉の高校教師と質的に格段の差があると思った。
 『セブンティーン』のゼミに登場した生徒たちのほとんどが木村氏の誘導に乗せられるなかで、Kさん(高2)の「憲法の内容や主旨を理解することがまず必要だと思いました。そのうえで、自分の意見を持っていきたいです」という発言が私には救いだった。Kさんは他のテーマでも自分の言葉で発言していて、沖縄の米軍基地問題についての発言も光っていた。けして知識が多いわけではなく、高い見識を持っているわけでもない。そういう意味では他の生徒と変わらない。だがその場の“空気”に迎合せず、自分の言葉を素直に語ろうとしている。彼女は何ごとにつけ付和雷同をしない人なのだろうなと思った。
 こういう人を続々と育てていくのが、高校教師であれ、大学教師であれ、次世代の教育に関わる者たちの使命であろう。

 この項が長くなってしまったが、平和安全法制に対しての反対意見が女性に特に多いということを知ったのが、女性誌を読むきっかけとなったのだ。
 女性誌は営業戦術上、世論の趨勢に便乗したのだろう。これらの特集で販売部数が伸びているそうだ。なかにはましな記事もあったが、多くが下品な悪乗りである。
 “空気”に便乗する者が、あらたに“空気”を広めていく。日本人が雪崩をうって崩壊に向かっていくなかで、Kさんのような賢者も静かに暮らしていることに一筋の光明を見たい。

<(2)へ続く↓>

平和安全法制をめぐる大衆世論の危うさ(2)

長くなったので2分割する

***** 目 次 *****
(1)
【安保関連法案反対の“空気”】
【“空気”増幅装置としてのマスコミ】
【“空気”に便乗する女性誌】
(2)
【冷戦終結後の日本の安全保障政策の概観】
【三つの選択肢】
【日米同盟のアポリア
憲法上の問題について】
【過去を忘れた人間の無邪気さ】

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承前

【冷戦終結後の日本の安全保障政策の概観】
 日本は第二次大戦後の世界で平和を保ってきた。それは、各国が自国の国益追求を第一にしているなかで、ある一定の時代での合従連衡のあり方が日本の平和を可能にしてきたからである。
 東西冷戦の時期には、日本はアメリカのアジア・太平洋戦略のなかでの重要基地の役割を果たし、反共の防波堤である限りでアメリカは日本を核の傘の庇護下においてきた。
 冷戦終結後のアメリカは、第三世界における大量破壊兵器保有の拡大を阻止するための「地域的防衛戦略」を前面に打ち出した。1991年の湾岸戦争はその皮切りである。
 ソ連の崩壊を見たブッシュ(パパ)政権はアメリカによる世界の一極支配を目ざしていた。アメリカ以外の国が地域覇権を樹立することは阻止せねばならなかった。この文脈で、日本が東アジアで自立した国家となるような事態は許せない悪夢であった(アメリカ人の潜在意識には原爆投下への復讐を恐れる心理が常にある)。冷戦期のソ連封じ込め政策に変わって、日本封じ込め政策が採られようとしていた。1992年に作成されたペンタゴンの機密文書(チェイニー国防長官承認済み)にはこの日本封じ込め政策が明記されていた。(この機密文書は3週間後にニューヨークタイムズ紙とワシントンポスト紙にリークされた)
 ブッシュからクリントンへと政権が移ってもこの「地域的防衛戦略」は受け継がれたが、クリントン政権は当初アジア政策の方針を中国との融和、協力に舵をきろうとした。政権内には在日米軍撤退の声すらあった。
 しかし日本経済はバブルの大崩壊を経て長期デフレに陥り、逆にアメリカは宿痾であった双子の赤字を改善し、金融資本主義のあくなき利益追求によって好況を迎えていた。日本脅威論は後退し、さらに北朝鮮の核開発や台湾海峡の軍事的危機の顕在化を目にしたクリントン政権は、再び在日米軍の重要性を意識し、ブッシュ以来の「地域的防衛戦略」を推進していくことになるのである。そして東アジアでの前方展開体制は冷戦期よりも活発化し、在日米軍はアジア・太平洋地域での戦略上基幹的に重要な位置を占めることになった。
 1996年の橋本・クリントン会談で公表された日米安保共同宣言は、日米同盟の再確認というよりも新たな同盟関係構築に向けての決意表明というべきだろう。97年にはガイドライン(日米防衛協力のための指針)が19年ぶりに改定された。これに先立って95年に村山内閣で策定された防衛計画の大綱では、日米協力と並んで、多国間安保対話や国連PKOへの貢献を軸とする「多角的安全保障協力」の考え方が打ち出された。この大綱にはアメリカ政権の意見も強く反映されている。97年改定のガイドラインでは周辺事態に日米共同して対処する方針が明確化された。朝鮮半島有事を視野に入れた結果である。
 2001年9.11テロ以降のブッシュ政権は、欧州同盟国からの批判を顧みない単独行動主義を採ったが、イラク占領が苦境に陥ったことで、次第に多国間で協力する方針に変わった。日本は当初からアメリカを支持する姿勢を表明し、01年テロ特措法、03年イラク特措法を制定し、イラク及びインド洋へ自衛隊を派遣した。これは日米安保条約とは関係のない行動であり、国際的平和支援活動の分野での対米協力だった。ここにおいて「日米同盟のグローバル化」が謳われることとなったのである。
 04年には小泉首相の私的諮問機関から提出された報告書(荒木レポート)を踏まえて、新たな防衛大綱が策定された。04年大綱は、「日本の防衛」と「国際的安全保障環境の改善」を二本柱とする。後者は95年大綱(前述)にある「多角的安全保障協力」の発展概念である。04年大綱では、日本の安全保障は国際的安全保障環境と不可分の関係にあることが明瞭に認識されている。また04年大綱では、島嶼部への攻撃やゲリラ・特殊部隊・武装工作船等の侵入への対処能力の増強、 ミサイル防衛システムの構築、 特殊作戦能力や大量破壊兵器防護 能力の向上等も提唱されている。そして中国の軍事力近代化や海洋進出に注目する必要性が初めて明記された。さらに上記荒木レポートでは、自衛隊海外派遣のための一般恒久法の整備、 平和支援活動における治安維持任務 への自衛隊の参加と武器使用要件の緩和の検討も提唱され、05年には自衛隊の海外派遣を通常任務とする改正自衛隊法が成立した。
 09年に成立した鳩山内閣次いで菅内閣のもとで、新たな防衛計画大綱策定への取組みは迷走した。10年12月に閣議決定された新大綱では、検討されていた武器輸出三原則の見直しや集団的自衛権の解釈変更の必要性などの記述は見送られた。なお武器輸出三原則については、野田内閣の藤村官房長官談話で緩和された(11年12月)。
 12年12月に発足した安倍内閣は、翌月ただちに10年大綱の凍結を決定した。そして13年に閣議決定した新大綱(現行)では、アメリカが財政上の理由から中長期的には東アジアから後退していかざるを得なくなるであろうことを予測し、諸外国との連携・協調をより一層推進する方針を打ち出した。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構NATO)、及び欧州各国との協調、アジア太平洋諸国との安全保障協力などを一層強化することが明示されている。いわゆる積極的平和主義である。
 2015年に18年ぶりに改定された新ガイドライン、そして現在国会審議中の平和安全法制はこのような安全保障政策の推移の流れのなかで理解すべきものである。審議中の法案については、新聞や雑誌をよく読めば分かることだから、ここでは長くなることを避けるためもあり、記述しない。今の法案を、時の流れのなかで立体的に捉える必要があろうと思い、冷戦終結後の安全保障政策の推移を概観したのである。

 

【三つの選択肢】
 日本の外交及び安全保障政策を大きく考えると、選択肢は次の三つしかない(③は安保の名に値しないけれど)。
① 同盟国との連携のもとで日本の安全保障政策を求めていく
重武装中立(核武装を含む)
③ 中国の属国となり過酷な支配を受ける

 いったい日本の大衆はどの選択肢を選びたいのだろうか。そんなことすら考えずに、ただただ「戦争はいやだ」と言っているだけではないのか。そして結果的に③を選ぼうとしているのだ。「そんなつもりじゃない」と言うのだろうが、自分が何をしているのかすら分からなくなっているのだ。
 日本では今までアメリカの属国としてある種の快適さを享受してきた人々も多かったのだが、中国属国の運命を甘く考えないことだ。言論の不自由を含む人権の抑圧は言うに及ばず、日本民族の離散や混血化の進行で、遠からず民族は滅亡するかもしれない。清帝国を樹立し栄華を極めた満洲民族の末路を見るがいい。
 なお②の場合は、重武装による莫大な財政負担に耐えられるかという問題はさて措くとしても、重武装実現の前に中韓連合軍(あるいは米軍)の予防攻撃を受け、軍施設が破壊されるだろう。予防攻撃国際法違反だから、建前では正当な先制攻撃であると主張できる策略をめぐらすのだろうが。
 それでもなおかつ重武装中立の道を選びぬく覚悟が日本国民にあるか。仮に覚悟があったとしても、現実の東アジアの地政学上の状況から見て、単独防衛は不可能と言ってもいいだろう。②は夢想でしかない。
 上記三つの選択肢の設定を認めない人もいそうだ。第四の選択肢があると。彼または彼女の本音は非武装中立なのだが、その言葉は口にしない。
 某文学者は「外交が大切なのです」と言うが、その具体論はまったくなく、政治家の腕の見せ所だとか言うだけである。もちろん外交はきわめて大切である。だが軍事の裏付けを持たない外交など、けして自立した国家の外交にはなり得ないという基本常識が日本の国民の間では共有されていないのである。
 またある人は言うだろう。「選択肢は三つじゃありません、もうひとつあります。アジアの人たちとの交流を深め市民どうしの信頼関係を築くのです。それが最大の安全保障なのですよ」と。
 もちろん民間交流が活発になるのはよいことである。人々の相互理解の深化が、民族間の憎悪を和らげるのも事実だ。だが国家間の相克は残念ながらそれとは次元が違うところにあるのだ。例えば一時の韓流ブームで日本人の親韓感情が高まり、民間交流も増えたが、国家間の対立はそれとは関係なく深まっている。
 市民どうしの信頼に基づく安全保障という考え方には、「国家は悪・個人は善・市民は善」という根強い思い込みがある。
だが私たちはけして国家なき世界では生きられないのだ。残虐な暴力が日常茶飯事であった中世ヨーロッパの中から近代国民国家は生まれてきた。国民国家は国民の安全を守るために存在し、同時に国民は国家を尊重し守らなければならない。それが現代に生きる者の宿命なのである。国家は悪だというのなら、「万人の万人に対する闘争」(ホッブズリヴァイアサン』)の自然状態に戻るしかないではないか。いや、21世紀の今日でも、国家の統治が失われた地域では、残忍な暴力が日常的に繰り返されている悲惨な現実があるのだ。
嫌だと言っても、私たちは自分の所属する国家の保護を離れては生きられないのである。千年先のことは知らないけれど。
 「個人は善・市民は善」と、空想の世界で遊ぶことは自由自在にできる。だが目を開けば、諸国家がエゴを剥き出しにして角突き合わせているのが21世紀の現実である。日本がいくら「諸国民の公正と信義に信頼」(憲法前文)すると言っても、他国から武力の威嚇を受けて屈服させられれば、それでおしまいである。
 日本人の多くは自衛隊の存在を容認している。様々な縛りをつけて、自衛隊員の命を必要以上に危険に晒させていながらのことであるが。自衛隊に敬意を払わず、自衛隊に依存している。勝手なものである。万が一のときには専守防衛で大丈夫だと思っている。あるかもしれない事態を想定すれば、専守防衛では守れないことが明らかなのに。
 また、日米安保条約についても容認する人が多いのだろう。いついつまでも、アメリカは日本を保護してくれると信じているから。
 大衆世論の動向を見聞きしていると結果的に③を選んでいることになるのだが、彼らの主観では①なのだろう。繁華街の通行人100人に尋ねてみればいい。85人ぐらいが①と答えるはずだ。②が数人、「この選択肢はおかしい、第四の道がある」と答える人は10人前後か。
 そうとは知らず結果的に③を選びながら心理的に①に依存している堕落した精神は、いつから芽生えどのように肥大化してきたのだろうか。

 

【日米同盟のアポリア
 平和安全法制に基本的に賛成意見を持つ者に対して、「おまえはアメリカの犬か」というような嘲笑や罵倒がよく投げつけられる。ではあなたは前記①~③のどれを選ぶのかと聞き返したくなる。
 サンフランシスコ講和条約日米安保条約の調印が同日の午前と午後であったように、日本の名目上の独立は事実上のアメリカの属国としてのスタートだった。戦力の不保持と交戦権の否認を定めた憲法9条2項は国家の主権を制限しているのであり、その条項を独立に伴って廃止するのではなく、日本の側から積極的に押し戴いたのがそもそものボタンの掛け違いの始まりだった。今安保関連法案を廃案にしたからといって、独立を回復できるものではない。
 国の防衛をアメリカに丸投げすることで、日本は経済の復興に専念することができた。この日本の姿を憂いて、自立した国家を志した政治家が岸信介だった。講和条約締結時には憲法改正再軍備に肯定的な意見を持っていた国民多数も、岸が政権の座についた頃には、まだ貧しくとも経済的豊かさの到来を少しずつ見始めていた。1960年の安保国会で衆議院での強圧的な採決を見た国民は、それまでくすぶっていた反岸感情を一挙に爆発させた。そして岸信介は、改定日米安保条約参議院での議決がないまま自然成立した直後に内閣総辞職をし、その志は頓挫する。
 あれほど声を枯らして「アンポッ、ハンタイッ!」を叫び続けた大衆は、安保反対の先頭に立った社会党を支持するわけではなく、岸の後を受けた池田内閣のキャッチフレーズ「所得倍増」に惹かれ、それを流行語とし、同年11月の総選挙で自民党は野党に大差をつけ圧勝する。
 物質的欲望さえ満たされればよいのである。以後の政権は憲法改正論議をタブーとして今日に至っている。
 東西冷戦の世界で、日本はアメリカに軍事基地を提供することで、反共の防波堤としてアメリカの核の傘の庇護下に置かれた。改定安保条約では、アメリカの日本防衛義務も明文規定された。
 日本にとってソ連の脅威は客観的現実であったが、高度経済成長に酔いしれる国民の多くは無関心だった。アメリカの庇護下にあったから能天気でいられたのだ。
 中国は、中華人民共和国建国以来、金門砲戦、中印国境戦争、中ソ国境戦争、中越戦争等々いくつもの戦争をしかけてきた。戦争ではなく、チベットへの一方的な武力侵攻もある。その中国も日本にだけは手を出さなかった。日本がアメリカの庇護下にあったからである。(自衛隊の戦闘力も抑止力になっただろうが、自衛隊は兵器のハードウエアが優れていて且つ隊員の任務遂行能力が高くても、憲法上の制約で張子の虎的存在であることは今では中国も充分承知しているだろう)
(注)朝鮮戦争で中国はアメリカと戦火を交えたが、朝鮮半島で共産政権を失うことは地政学上中国の死活的問題となる可能性があったためである。

 

 冷戦期には、「日本に攻めてくる国なんてあるわけないだろ。どこが攻めてくるというの? 妄想だよ」と言って、真面目な議論をせせら笑う人をよく見かけたものだ。いや、2015年の今日でさえ、同じ言葉を吐き続けている有名TVジャーナリストがいる。「アベさんはヒトラーだ」などと蒙昧丸出しの科白を口走りながら。TV映りの見てくれだけはいいので、視聴者の間では結構人気が高い人なのだろう。
 日本の平和はアメリカの核の傘によって守られてきたのだ。憲法9条のおかげで日本は平和だった、と多くの人が異口同音に言う。これからも9条を守っていれば平和なのだ、と。あまりにも稚拙で、まともな大人が言うことではない。だが、多くの大人が異口同音に言っている。
 憲法9条2項は、日本国が主権の重要要素を放棄して、アメリカの属国となることによって担保されてきたのだ。9条を守れと叫ぶ人が集団的自衛権の限定的行使にすら反対しているのは、支離滅裂なのである。9条を守れと叫ぶ人は、アメリカの属国であり続けろと言っているのに等しいのだが、自分の言っていることの意味すら理解できないのだろう。そしてアメリカにも都合というものがあるのであり、別に末永く日本を保護する責務もないのだ。
 東西冷戦の時代は、日本にとっては能天気に暖衣飽食に明け暮れていた時代だった。だが冷戦はとっくに終わったのだ! 多くの日本人の感覚はいまだに冷戦期のアメリカの庇護の心地よさに眠ったままだ。
 1990年代前半の一時期、アメリカは日本を潜在的敵性国と断じて日本封じ込め政策をとろうとしたのだ。日米関係はその迷走期を経て、96年の日米安保共同宣言の前後から新たな同盟関係に入った。
 その推移は前述の【冷戦終結後の日本の安全保障政策の概観】の項に記した。90年代半ば以降の日本の安全保障政策の肝は、日米安保条約の枠を超え、日本の安全保障を国際的な安全保障環境の改善と不可分の関係にあるものとして捉えることにある。国際的平和支援活動の一環としての対米協力、民主主義諸国家との連携が21世紀の日本の安全保障政策のテーマである。
 もっか審議中の平和安全法制整備法案はこの流れのなかで理解されねばならない。法案への反対の意見が多いが、その論は、今世紀の国際環境のなかでの日本の安全保障政策はいかにあるべきかという視点から発せられないかぎり、ほとんど無意味である。平和支援活動は武力の支えなしに実行できるものではない。その自衛隊活動のための法整備、他国との連携に必要な法整備(いわゆる“駆けつけ警護”など)なくしてどうして平和支援活動が実施できるのか。そして国際貢献の役割から逃避して日本はどうして21世紀の世界で存立していけるのか。
 04年、イラク・バスラの石油積出港で原油を満載した日本郵船所属(船籍はパナマ)の超大型タンカー「高鈴」がアルカイダから自爆テロの襲撃を受けた。船体に損傷を受けたものの、「高鈴」は間一髪轟沈の難を免れた。多国籍軍の応戦があったからである。この戦いで米海軍兵2人と沿岸警備兵1人計3人が殉職した。この事件を日本郵船も日本政府も公表しなかった。一般に知られたのは、3年後の産経新聞のスクープ記事によってである。明るみに出た後も、日本政府(福田康夫内閣)は犠牲者に哀悼の意を表明するでもなく、日本国民のほとんどは無関心だった。日本人の平和主義と豊かな生活が、他国が行使してくれる武力によって守られていることを象徴する事件だった。
 9条は世界に誇る宝だと歌ってさえいれば、日本人の平和で豊かな生活は、これからも他国の兵士が血を流して守ってくれるというのか。
 また平和支援活動とは別に、重要影響事態や存立危機事態の場合には、我が国の防衛を同盟国との協力のもとで図っていく以上、集団的自衛権の行使は当然付随するものだ。世界の初歩的な常識である。だが日本は憲法の制約上きわめて不十分な限定的行使という形でしか法案に表わせていない。それすらいけないというのであれば、私たちはもう夢想の世界に引きこもって暮らすしかないではないか。

 さて問題は、日米同盟といっても対等ではないという点にある。もちろん超大国アメリカと対等の軍事力を持つ国は世界にない。だが日米同盟の問題点は、そのような意味での非対等性ということではなく、名目上の独立後63年余りにわたって、日本がアメリカの従属国であったという事実にある。主権制限条項(9条2項)がある憲法を自ら進んで押し戴き、自国の防衛をアメリカに丸投げにしてきた国が“同盟国”日本だ。そのようなアメリカの同盟国は他にない。
 日本はアメリカに対して自立した外交力を持ってこなかった。例えばイラク戦争国連決議がないままにアメリカ、イギリスなどの有志連合が始めたとき、アメリカとの軍事同盟であるNATOの加盟国のうちドイツやフランスはこれに反対した。日本はいち早くアメリカ支持の立場を表明した。反対した国はそれぞれの利害得失があったからなのであるが、主権国家だからこそ自国の国益のために反対する自負があった。日本はただアメリカに追随するしかなかった。国益をいうならば、日本はイラク政府に対する巨額の債権を放棄する要請に応じざるを得ず、国益を損なった。このときの日本には、かつての湾岸戦争に不参加であったことでの諸国からの批判 ―というより軽蔑から受けたトラウマがあった。さらに北朝鮮による拉致問題が表面化したことで、アメリカの協力が欲しかった事情もあっただろう。いずれにせよ日本は、イラク戦争の是非を主権国家として主体的に考えることもないまま、アメリカに追随するしかなかったのである。
 だから、日米同盟グローバル化の流れのなかで、今後も日本は不本意な戦争に協力せざるを得なくなる恐れはなきにしもあらずなのである。最悪の場合は、東アジアでの戦争の先兵として、自衛隊はアメリカに利用されるだけの結果になる危険もあり得るだろう。
 平和安全法制について、「日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」という批判が多い。ならば批判者は、上に述べたような半世紀以上にわたる日米関係の宿痾を踏まえて考察しなければ、単なる平板な感想にしかならないだろう。この宿痾をどのようにして克服すべきとお考えなのだろうか。
 法案反対者は戦争のリスクを声高に言いつのる。だが21世紀前半の世界自体が戦争リスクの高い時代なのだ。日本がどのような途を選んでも、リスクゼロなどということはあり得ない。夢想の世界でなら別だが。そのリスクを相対的に小さくする方途を模索するのが政治の役割である。大衆はそれをヒステリックに妨害してはいけない。ものを言うのなら、同時に考えを深めるべく努力するのが国民の責務だろう。“空気”に付和雷同してはいけない。
 平和安全法制整備法案は、この20年来の新たな日米同盟関係の帰結、というよりも今後への通過点として出てきたものである。現実問題として日本はこの法制下で進んでいくしかないと私は考える。他の選択肢はない。そしてそのなかで真の主権回復の途を希求していくことによってでしか、日米同盟の難問は克服できないだろう。きわめてナロウパスであるが。
 この日米同盟の難問について、江藤淳はおもしろい譬え話を紹介している。前述した橋本・クリントン会談の結果を受けて書かれた政治評論文の中にある。下手に要約するよりも、やや長くなるが原文を引用しよう。

 

 話はやや歴史を遡る。江戸時代の長州藩には、慣例化された、一風変わった問答があったという。その問答は、この藩が関ヶ原の戦いで西軍にくみし敗れて以来明治維新までの二百六十八年間、毎年正月の参賀の式で続けられた。家臣たちを集めたこの式で、上席家老が藩主に「殿、今年は徳川をお討ちになりまするか」と尋ねたというのである。
 すると藩主が、「いや今年はやめておこう」と答える。上席家老は「ははあっ」と平伏し、今度は下々の家臣たちに「殿は今年はお討ちになるご所存にあらず」と告げる。そしてそれを二百六十八年間続けたのち、長州藩は本当に徳川を討つことになる。
 こんな話を持ち出したのは、いうまでもない。この長州藩と同じ気概を、現在の日本の政治家も持つべきだと思うからだ。もちろん、今の日本に、アメリカを討つ必要などない。しかし、「今年は主権の制限を甘受するのをおやめになりますか」と、聞いたときに、「いや、今年はまだ情勢が熟しておらん」「ははあっ」と。主権制限の状態は何年続くかわからないけれど、大事なことはこの「今年はおやめになりますか」という声を、首相をはじめ日本の与野党の政治指導者たちが、心中に聞き続けられるかどうかだと思うのだ。
江藤淳『日米同盟 ― 新しい意味付け』(初出SAPIO.96年6月26日号.文藝春秋『保守とは何か』所収)

 

 ナロウパスである。しかも今の日本に二百数十年もの時間的余裕はない。もはや喫緊の課題になっているといっても過言ではない。
 さらに困ったことは、この気概が多くの政治指導者、言論人、大衆の間で失われてしまっているのではないかという寒々しい状況である。なるほど「アメリカに追随するな」「アメリカの戦争に巻き込まれるな」という声はたくさんある。そして同じ口で「憲法9条を守れ」と言うのだ。9条2項があるからアメリカへの追随を余儀なくされているという明白な事実が見えていないのだ。

 

憲法上の問題について】
 平和安全法制について、憲法学者違憲論が多い。
 朝日新聞が6月下旬に実施したアンケートの結果(一部)を見てみよう。憲法学者ら209人に問いかけ、122人から回答を得た結果である。
 「集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案は、憲法違反にあたるか、あたらないか」の問いには、「憲法違反にあたる」が104人(85%)、「憲法違反の可能性がある」が15人(12%)、合わせて97%である。
 「現在の自衛隊の存在は憲法違反にあたるか」の問いには、「憲法違反にあたる」が50人(41%)、「憲法違反の可能性がある」が27人(22%)、合わせて63%である。
 そして「憲法9条の改正について」の問いには、「改正する必要がある」が6人(5%)、「改正する必要がない」が99人(81%)、「無回答など」が17人(14%)という回答となっている。
 憲法学者は法学内在の論理に従って憲法についての思考を重ねているのである。その論理に従えば、安保関連法案を違憲と捉えるのは必然的な結論になるのであろう。その思考姿勢は学者としての倫理から来るものであり、それが学者の矜持でもある。だが私たちはそれをただちに政治的意見に直結して理解してはいけない。「憲法学者のほとんどが法案は違憲だと言っているから、廃案だ!」と野党の政治家やジャーナリストたちが斉唱しているのだが、短絡というべきだろう。憲法学者は、憲法学者の多数決で政治課題を決することを望んではいない。政治には政治の役割がある。回答者の一人(鈴木敦氏)は「特に集団的自衛権については、憲法論ばかりに過重な負担を加えるのではなく、国際法上認められた発動要件や安全保障上の意義(または問題点)についても、専門的な議論が尽くされるべきだろう」と附記している。大切な指摘である。
 単に憲法学上の回答をするだけではなく、法案の撤回を求めて政治運動に関わる学者たちもいる。違憲の法案を政治的見地から成立させようというのは、立憲主義の原則に反するというわけだ。それが日本の安全保障上必要だというのならまず憲法改正を実現してからのことだ、と彼らは主張する。
 上のアンケート結果を振り返ってみよう。彼らの多くは自衛隊の存在を違憲と捉え、且つ憲法改正に反対している。ならば三段論法によって、自衛隊の廃止を主張するのが当然の論理的帰結である。だが彼らからそのような声は聞こえてこない。ここで彼らは、政治の力によってなされた憲法の解釈変更をなし崩し的に認めてしまっているのである。立憲主義の精神はどうしたのだ。
 堂々と憲法を改正するのではなく、解釈改憲を重ねることで、今日の自衛隊を創り出し、数次にわたる防衛計画大綱とそれに基づく様々な法整備も実施してきたのだ。核兵器の保有も憲法9条2項で許容される範囲内のことだとするのが政府の公式見解である(1978年参議院予算委員会での内閣法制局長官答弁)。
 なぜ堂々と憲法改正ができなかったのか。吉田茂のボタンの掛け違い(前述)から始まったことだが、岸信介の志を踏みにじったのは「戦後最大の国民運動」だった(前述)。予測し得る将来、第四の権力たるマスコミの悪意とそれに誘導される大衆の言語状況を鑑みれば、9条2項に係る憲法改正は実現困難である。
 ならば座して日本の死を待つのが政治家のとるべき態度なのだろうか。国家存亡の危機を前にして、憲法の解釈上ぎりぎり許容されると考えた法案を提出せざるを得ない為政者の苦悩を考えてみよ、心ある国民ならば。
 だいたい「安全保障政策が必要なら憲法改正を先にしろ」と言っている憲法学者のほとんどは憲法改正に反対しているのである。論理的帰結からいって、彼らはこの20年来の日米同盟と日本の安全保障政策に反対しているのである。ならば堂々とそれに反対すればいいのである。それは専門外だと言うのなら、専門外のことに学者が共同声明を出したりすべきではない。一国民としての意見表明は自由であるが。
 なお上記のアンケートで「憲法改正の必要性」の問いに対して、17人(14%)が「無回答など」となっているが、そのうちの5人が「憲法改正の必要性は国民が判断することであり、憲法学者が言うべきことではない」という趣旨のコメントを添えている。もっともな見識であると思う。アンケートへの協力を依頼した209人のうち、回答率は58%にとどまり、87人からは回答が得られなかった。これは、学者の回答を政治利用しようとしている朝日新聞への無言の批判が多かったからではないかと、私は推測している。
 この項の最後に、回答者の一人である井上武史氏の「附記」を全文引用する。

 

(おそらく貴社の立場からすれば、このアンケートは、憲法学者の中で安保法制の違憲論が圧倒的多数であることを実証する資料としての意味をもつのだと思います。しかし、言うまでもなく、学説の価値は多数決や学者の権威で決まるものではありません。私の思うところ、現在の議論は、圧倒的な差異をもった数字のみが独り歩きしており、合憲論と違憲論のそれぞれの見解の妥当性を検証しようとするものではありません。新聞が社会の公器であるとすれば、国民に対して判断材料を過不足なく提示することが求められるのではないでしょうか。また、そうでなければ、このようなアンケートを実施する意味はないものと考えます。)

 

【過去を忘れた人間の無邪気さ】
 平和安全法制を憲法違反だと回答した学者の多くは、学理上の見解を述べたにすぎないのだろうと思う。即政治的主張をしているわけではない。他方、護憲の立場からこの法案の廃案を目指して活動をしている学者たちもいる。
 後世の護憲論に多大な影響を残したのが、憲法学者宮澤俊義を学祖とする学派である。宮澤俊義は戦前以来変節を繰り返してきた学者であったが、最終的に「八月革命説」に立った憲法学を打ち立てた。「八月革命説」とは、1945年8月のポツダム宣言受諾によって天皇主権の国家から国民主権の国家に変わったのを「革命」と捉える考え方である。政治学では丸山眞男がこの立場である。平和安全法制に反対の意思表明をしている政治学者には、丸山学派の流れを汲む人たちも多い。
 彼らは ― 憲法学者も政治学者も ― 1945年8月を日本の始点と捉え、それ以前を過ちの時代とする。そこには、列強の植民地とされる危機を乗り越えて近代化に邁進し、第一次大戦後は迷走を重ねて破局へと向かった日本を、欧米の史観で見る眼はあっても、戦わざるを得なかった(そして敗れざるを得なかった)日本の立場から捉えなおす史観が欠落している。
 1930年に『大衆の反逆』を著したスペインの哲学者オルテガは、20世紀になって現出した大衆社会の病理の原因のひとつを、19世紀後半の指導層の間で「歴史的文化」の喪失が蔓延したことに見出している。
 1945年8月を日本の始点とするような平板な歴史観(それは「歴史観」の名に値しないだろうが)が、9条を持つ憲法を理想化する。その理想が、諸国家あるいは勢力が武力を振りかざして対立する21世紀の現実を見えなくさせている。オルテガの言葉を借りて言えば、「過去をもたない、あるいは過去を忘れた人間の無邪気さ」である。
 安保法制反対の活動を精力的に展開しているある著名な政治学者は、自分たちが戦後の政治学を研究してきたのは民主主義を守るためだったのだ、同調しないものは政治学者を続ける資格がないとまで断言する。そしてそんな学者の研究のために税金を投入するなと言う(ツイッター2件を要約)。これを全体主義という。異なる意見の存在を許さない。これがリベラルを自認している人の正体なのだ。
 安保法制反対の“空気”が広く大衆を覆っている。歴史観を持たず、戦争の悲惨さを繰り返し放送する8月のTVで歴史を学んだつもりになり、「戦争法案反対」の声を上げる大衆が醸し出している“空気”、その“空気”は全体主義の格好の土壌となるものだ。
 平和を守ろうとする政治の努力を蔑視してはいけない。ものを言いたければ、同時に考えなければいけない。思考を麻痺させたままスローガンを唱和してはいけない。そして若者は“ハーメルンの笛吹き男”に惑わされてはいけない。
(了)

大衆からの自立

*** 目 次 ***

【大衆の登場】

【政治家と大衆】

吉本隆明と「大衆の原像」】

【正面の敵】

 

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【大衆の登場】

 今手元にある画集を開いて、ウラジミール・マコフスキーの『受刑者』(1879年)という絵を眺めている。2007年に上野の東京都美術館で催された『サンクトペテルブルク 国立ロシア美術館展』で購入した画集だ。

 19世紀後半のロシアで、インテリゲンツィアたちの「ヴ・ナロード(人民の中へ)」をスローガンとする運動が展開された。ナロードニキと呼ばれたインテリゲンツィアたちの活動が広がるなかでこの作品は描かれた。官憲に拘束された若きナロードニキの姿を描いた絵である。粗末な外套を着た若者が、抜身のサーベルや銃剣を携える官憲たちに拘束され連行される場面が描かれている。若者が潜んでいた農家の主婦らしき人物が祈るような身振りで若者に何かを訴えている。その隣では夫らしき男がべそをかいている。農家の娘らしき少女が緊張した面持ちで立ちすくんでいる。若者は農婦に向けて、鋭い、しかし当惑したような視線を向けている。同時代の画家マコフスキーは運動に身を投じた若者の精神に敬意と共感をもってこの絵を描いているように思える。育ちの良さそうな若者の純な表情が印象的である。

(注)この絵で描かれているドラマのシチュエイションは不明なので、上記の主婦やその他周りの人たちと若者の関係は私の勝手な想像による。但し若者がナロードニキであることは画集に添えられた短い解説文に書かれている。

 ナロードニキたちは、ロシアで進行する西欧化の波に反抗した。ロシアの民衆(農民が大多数)の土壌に根差した共同体(ミール)にロシア社会主義の理想を見出し、「人民の中へ」をスローガンとして農民への啓蒙活動に専心した。しかし彼らは農民たちからかならずしも歓迎されず、またナロードニキにも諸派があり、テロに傾倒するグループもあった。

 ナロードニキたちが思い描いた「ロシアの人民」は抽象的な概念であり、現実に生きるイワンやらカチューシャやらは彼らの思念の中ではそこから演繹された存在でしかなかった。

 若きドストエフスキイナロードニキ運動が台頭するほんの僅か前の時期にシベリアの流刑地で囚人となっていた。彼は監獄の中で雑多な階層の人間たちとの共同生活を強いられていた。ドストエフスキイ自身は下級貴族の家の生まれ、育ちである。当時のロシアで貴族知識人の階層と民衆との生活習慣の格差はとてつもなく大きなもので、それぞれに別世界の人間であったといっても過言ではない。ドストエフスキイが生活を共にした囚人たちは、その民衆の中でも最下層に位置する人たちが多かったのである。

 ドストエフスキイは、ナロードニキたちが演繹したような抽象的概念としての「人民」ではなく、生身のイワンやらミーシャやらが発する体臭の中で四年間の流刑生活を送った。きっと辟易とすることも多かったろうが、ドストエフスキイはこの無知な最下層の人たちの内面にある規範意識に関心を持ち、そこに息づいているキリスト教精神を見出した。そのへんの事情は『作家の日記』や『死の家の記録』に詳しい。

 ドストエフスキイは出獄後、露土戦争(1877~78年)での民衆の熱狂ぶりを見たこととあわせて、流刑地での生活を原体験として得た民衆観を深めていく。それは、民衆を啓蒙の対象とすることではなく、民衆の非合理的な感情をも含む、知識層と民衆を統合するような大きな政治思想の必要性を希求するものであった。

 ドストエフスキイは19世紀の人であったが、20世紀の来たるべき大衆社会を予見しているようでもある。大衆が政治の動向を左右するようなパワーを持った時代をだ。

 パワーを持って政治を動かす大衆が正しい判断をするとはかぎらない。むしろ非合理的な感情に基いて間違った判断をすることのほうが多いといっても過言ではないだろう。大衆の政治への感情がしばしば政治家やマスメディアの煽動によって暴走し、その判断が自らの首を絞める結果をもたらす。「一般大衆はパンを求めるのだが、なんと、そのやり方はパン屋を破壊するのがつねである」(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』・1930年、寺田和夫訳・中公クラシックス

 オルテガは、20世紀に入って現出した大衆社会の病理の原因を、19世紀後半に指導的地位にあった人たちが歴史に無知になり始めたことに見出す(前掲書)。無責任な大衆が政治動向を左右する危機的な状況を前にして、オルテガは、過去からの知、すなわち歴史意識を人々が養うことの大切さを主張した(同書)。

 20世紀から21世紀にかけて、大衆が政治を振り回す危機的状況はさらに肥大してきたが、ドストエフスキイが希求したような、知識層と民衆を統合する大きな政治思想を人類は生み出し得ていない。そしてオルテガが警鐘を鳴らしたような歴史意識の欠如と大衆の迷走は、現代日本において特に顕著である。

 民主政治の制度は制御を間違えると内から崩壊する危険を常に孕んでいる。それは民主政治を採っている世界各国共通の問題である。しかし国防をタブーとするような妙なコモンセンスが国民多数の間で共有されているような国が、日本以外のどこにあるだろうか。

 

【政治家と大衆】

 安保関連法案を審議中の国会議員たちの醜状には目を覆いたくなる。

 国会議員を選んでいるのは国民である。

 その一方の代表たる野党第一党・民主党議員たちの、国家への無責任さのみが剥き出しになっているかのような審議態度を見聞きしていると、日本の未来にはもう絶望しかないと思わざるを得なくなる。

 特に民主党後藤祐一衆議院議員の質問がひどかった。5月28日の審議で後藤議員は、高村正彦自民党副総裁のNHKTVでの発言をわざわざ曲げて(捏造して)引用して、集団的自衛権行使の事例について批判した。あるいはまた、事前に質問事項を提出しておくという慣行を無視し、15年以上前の政府委員の答弁について唐突に質問をし、TVカメラの前で戸惑う外務大臣を相手に勝ち誇ってみせる。これらから浮かび上がる卑劣さは「おまえそれは人としてどーよ」というレベルである。

 国家の安全保障政策について審議する委員会ではないのか。今の世界の動向について語り、国民の生命と財産を守って日本が国家として生存していく方途について議論する場ではないのか。その機会に民主党議員たちは政府の揚げ足取りを最優先としてしか考えていないようだ。審議を内容的に深めることについて、実質的な妨害を図っているだけではないのか。

 リスクを声高に主張するのなら、憲法9条2項を拡大解釈も一切許さずに守護していくことがもたらすリスクについてなぜ何も考えないのか。どちらにせよリスクゼロなどは夢想でしかない。諸国家のエゴイズムが剥き出しになってきているこの21世紀に生きること自体が大きなリスクを伴っているのだ。なぜその現実を直視しようとせずに、枝葉のリスクのみに微視的に焦点をあてた質疑を繰り返すのだ。日米同盟のもとで日本が生きようとすると、戦争に巻き込まれるリスクがあるという趣旨の質問が繰り出される。然り! ならば脆弱な国防力しか持っていない(←憲法9条2項)日本が今突然丸裸で放り出されたときのリスクはどうなるのだ。アメリカの方から日米安保条約の破棄を通告してくる事態は充分にあるのだ。どちらにもリスクがあることを認めたうえでの議論になぜならないのか。政府は日米ガイドラインを実行することに伴うリスクをなぜ認めないのか。野党はなぜ重箱の隅ばかりつついて、リスクゼロを求めるのか。

 民主党議員たちが臆面もなく実質的に内容ある審議を妨害しているのは、それで民意の支持を獲得できると計算しているからである。政府が安保関連法案の施行に伴うリスクを明言しないのは、世論の反発に腰が引けているからである。

 もちろんこの愚かさに辟易として民主党から離れていく民意もあろう。民主党にも「公」への責任感を持った議員も(少数ながら)いるのであり、彼らが実りのある質疑を行なおうとしていることは私も承知している。しかし数は力である。不真面目な審議を見て離れていく民意よりも、安保法案が廃案になることを望んでいる民意の方が圧倒的に大きいことを彼らは知っているからこそ、議論を深化させることよりも政府の揚げ足取りを繰り出すことに熱意を注ぐのである。それ以前に、見識不足で幼稚な質問しかできない議員の能力の問題もあるのだが。

 国家百年の計とまでは言わぬが、せめて10年程度のスパンで世界と日本を考える見識を持って行動する政治家は、与野党を問わず、いることはいるが、少数でしかない。目先の民意の支持にだけ関心を向ける政治屋が大多数である。

 民意を尊重するのはあたりまえじゃないか、おまえ何を言ってるのだ! と怒る人たちがいる。もう10年余り前になるか、小泉総理が国会答弁で「世論はときに間違えることもある」(あたりまえのことだ)と言っただけで、「小泉さんは民主主義の何たるかが分かってない」とTV世論が沸いたことがあった。私の知る範囲でも、直接民主主義こそが理想だと思ったり言ったりする人が少なくない。「パンを求めてパン屋を破壊する」人たちだ。

 

 衆愚政治に堕さずに、民主主義政治が健全に実行されている場合にあっても、政治家は必ず民衆の支持を得なければならない。目先の民意の反発があっても、それに屈せず長期的に国家・国民の利益を図っていこうとする賢明な政治家も、その政策の意義について民衆を説得しなければならない。

 大衆に支えられること、これは民主主義政治下の政治家の必要条件である。

 では知識人と政治についてはどうか。

 知識人の政治活動のあり方のひとつは、各種メディアを通じてあるいはまた講演会やシンポジウムの場で自らの政治的意見を主張することである。もうひとつは、政治の世界に身を投じることである。自ら立候補する場合はもちろんだが、特定の政治家や党のブレーンとして活動したり、選挙運動に全面的に没入することがこれに該当する。後者の場合の知識人は、大衆の支持の獲得を目的とせざるを得ない。このときの知識人は大衆に依存する存在となる。その場合は知識人というよりも、知識人出身の政治家と呼んだほうがふさわしいだろう。それが悪いと言っているのではない。職業の選択はもちろん彼または彼女の自由である。

 

吉本隆明の「大衆の原像」】

 吉本隆明は、国家からの自立と党派からの自立を可能とする思想の構築を求めて生涯を捧げた思想家である。ここでいう「国家」とは、経済社会構成に対応する「社会的国家」にとどまる概念ではなく、法によって政治的国家と二重化することによってはじめて権力を持つことになった存在として捉えられる(『自立の思想的拠点』・初出1965年)。

 

 法・国家というものは、何らかの意味で人間の観念が無限の自己としてうみだした宗教が、個別的なものから共同的なものへ転化され、それによって社会的国家の外に国家をうみだしたものである。信仰がもっている憧憬と戒律の二重性は、それゆえ法や国家の本質につきまとっている。(同書)

 

 吉本はここで「天皇制国家」(注) のことを言っているのである。

注)「天皇制」という語は、それを用いる者の思想的立場が反映されている語であるが、私はここで吉本を引用して用いているに過ぎない。

 吉本によれば、古典的マルクス主義やその実存的深化を進めたサルトル実存主義は単なる知識人の尖端的な言葉でしかない。「しかしわたしどもが知識人であろうとすれば、必然的に土俗的な大衆の思想をくりこみ、投影せざるをえないのである。」(同書)

 土俗的な大衆の思想を繰り込まない尖端的な知識人が政治行動に向かうとき、彼らは大衆を啓蒙の対象として捉えることになる。

 

 現在にいたるまで、知識人あるいはその政治集団である前衛によって大衆の名が語られるとき、それは倫理的かあるいは現実的な拠りどころとして語られている。大衆はそのとき現に存在しているもの自体ではなく、かくあらねばならないという当為か、かくなりうるはずだという可能性としての水準にすべりこむ。大衆は平和を愛好するはずだ、大衆は戦争に反対しているはずだ、大衆は未来の担い手であるはずだ、大衆は権力に抗するはずだ、そして最後にはずである大衆は、まだ真に覚醒をしめしていない存在であるということになるのだ。もちろん、こういう発想はまったく無意味である。「否」の構造をとって、大衆は平和を好まないはずだ、大衆は戦争に反対しないはずだ、大衆は未来の担い手でないはずだ、大衆は権力に抗しないはずだ、といってもおなじだからである。あらゆる啓蒙的な思考法の動と反動はこのはずである存在を未覚醒の状態と結びつけることによって成立する。

 しかし、わたしが大衆という名について語るとき、倫理的なあるいは政治的な拠りどころとして語っているのでもなければ、啓蒙的な思考法によって語っているのでもない。あるがままに現に存在する大衆を、あるがままとしてとらえるために、幻想として大衆の名を語るのである。(『情況とはなにか 1 知識人と大衆』・初出1966年.傍線は原文では傍点)

 

 この「幻想としての大衆」が、吉本の思想の基底を貫いている「大衆の原像」である。「この大衆があるがままの存在の原像は、わたしたちが多少でも知的な存在であろうとするとき思想が離陸してゆくべき最初の対象となる」(同書)のである。

 例えば吉本は共産党員であった作家中野重治の獄中転向を、この「離陸」の一歩として高く評価する。獄中で政治思想上の転換を表明した佐野学や鍋山貞親の転向よりも、あるいは獄中非転向を貫いた小林多喜二宮本顕治よりも中野重治の転向を高く評価するのである。

 吉本の『転向論』(初出1958年)によれば、佐野や鍋山は「日本封建制の優性遺伝子」に対して屈服したのであり、他方小林や宮本の非転向は、彼らの理論が最初から日本的特性との対決を回避したところで構築したモデル二スムスでしかないので、現実から遊離したところで原則を固執していればよいだけの話で、非転向を貫けたのだと理解されている。

 吉本の『転向論』は、中野重治の短編小説『村の家』(1935年)を正面に据えて論じている。『村の家』は、主人公勉次(中野自身がモデル)が政治活動をしないという上申書を提出して出獄し、帰郷した村の家で父親の孫蔵から説教される話である。

 孫蔵は勉次を叱る。「それじゃさかい、転向と聞いた時にゃ、おっ母さんでも尻餅ついて仰天したんじゃ。すべて遊びじゃがいして。遊戯じゃ。屁をひったも同然じゃないがいして。(中略)本だけ読んだり書いたりしたって、修養が出来にゃ泡じゃが。お前がつかまったと聞いた時にゃお父つぁんらは、死んで来るものとして一切処理して来た。小塚原で骨になって帰ると思うて万事やって来たんじゃ」

 孫蔵は、口先だけの革命論を書きまくったあげくに刑死を恐れて転向してきた息子の不実をなじり、今後書くものはきっと言い訳みたいなものだろうから、もう筆を折って百姓になれと迫る。これに対して勉次は「よく分りますが、やはり書いて行きたいと思います」と答える。

 この勉次の姿勢に吉本は、日本の封建的土壌に息づく大衆の心を直視したうえでなお自己の思想を築いていこうとする中野の覚悟を見ているのである。

 吉本は書く。「中野が、その転向によってかいま見せた思考変換の方法は、それ以前に近代日本のインテリゲンチャが、決してみせることのなかった新たな方法に外ならなかった。」(『転向論』)

 さて、吉本が『自立の思想的拠点』(論文版)で指摘したような、社会的国家の外に国家を生み出した共同の宗教性、すなわち日本の封建制の優性遺伝子を孫蔵が体現しているのであろうか。『村の家』で描かれた孫蔵は立派な道徳観を持った人格者であり、その道徳観は封建的土壌云々の問題ではなかろう。

 『吉本隆明という「共同幻想」』(2012年・筑摩書房)を著した呉智英は、孫蔵のどこが大衆か、と指弾する。孫蔵は見識と向上心を持った中産階級の人間であり、吉本のいう「大衆の原像」の定義がそのつどころころ変わっているではないか、と。

 吉本の大衆観を振り返ってみよう。

 

 大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、けっしてそこを離陸しようとしないという理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、現況に対してはきわめて現象的な存在である。もっとも強固な生活基盤と、もっとも微小な幻想のなかに存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である。(前掲『情況とはなにか 1 知識人と大衆』)

 

 『自立の思想的拠点』と題した講演(1966年)ではもっと平易に、「たとえば魚屋さんならば魚を明日どうやって売ろうかというような問題しかかんがえないわけです」と大衆の「原型」を例示している。

 

 呉智英は、「魚屋」であったり「孫蔵」であったり、あるいは他の機会に吉本が言及した「独特な残忍感覚を持つ日本の恒常民衆」であったりと、いったい「大衆の原像」には何種類あるのかと吉本を揶揄している。

 私が呉に少し異論を持つのは、吉本が想定した「大衆の原像」に対して誤解があるのではないかという点である。あるがままの大衆の姿にさまざまな様相があることは吉本も分かっているのである。そのうえで、『情況とはなにか』から先に引用したように、あるがままに現存する姿の奥に「幻想としての大衆の名」を想定しているのである。これが「大衆の原像」で、きわめて抽象的な概念である。ご本尊様である。ご本尊様の姿は誰も見たことがないし、「大衆の原像」とはいったい何であるか、私にもよく分からない。

 吉本が政治的国家の起源に人々の幻想としての共同の宗教性を見出し、その問題を直視しない近代知識人やその政治組織である「前衛」の理論の空虚さを激しく論難し続けた営為は、日本の思想史のなかで特筆すべきものであると考える。

 しかし「自立の思想的拠点」として抽象的な「大衆の原像」を設定して、知識人がこの「原像」を取り込む重要性に積極的意義を求めたことで、吉本もまた、批判してやまない「近代知識人」と同じ空転をしていく宿命を負ったのではなかったか。知識人の啓蒙活動を原理的に批判しながら、自らも晩年には啓蒙発言を繰り返していたのではなかったか。いや、晩年といわず、1980年代の反核運動への批判の発言から吉本の啓蒙精神は発揮されていたのだ。

 吉本隆明もまた大衆からは自立しない知識人であった。

 

【正面の敵】

 私が当ブログや他のサイト(ASREAD)で過去に書いた文章には、愚昧な大衆世論に対する私の不快感を隠さずに綴った箇所がいくつかある。嫌悪感が滲み出ているような文章は読む人にも不快感を与えてしまうかもしれない。しかし、だからといって、私は社会に何かの怨みを持っているわけではないし、まして日本を呪っているわけでもない。

 私事を記せば、私が半生を通して出会ってきた人たちは善き人がほとんどであった。日常生活の場では、「大衆」などとひと言で括ってはいけない個々の人々がいるのである。あたりまえのことだ。個々には、誠実な人もいるし、不誠実な振舞いをする人もいる。いや、一人の人物がある場面では誠実な面を発揮し、別の場面では不誠実なことをしてしまうこともあるのだ。私も然りである。市井には孫蔵のような人格者も珍しくはない。呉智英は孫蔵のどこが大衆かと言ったが、孫蔵も大衆の一人である。

 幸いにと言うべきだろう、私は半生を通じて、人を真底怨んだり、憎しみに血が沸き立つ思いをするような経験をしたことがない。私が寛大なのではなく、単に凡庸な生だということである。

 ときには人から理不尽な悪意の攻撃を受けたことも一度ならずあった。片手の指で数えて指が余る程度の回数だ。その程度のことは、数十年生きている間には誰の身にも起こりがちなことであって、その時々の限定的出来事でしかない。人の世は善意に満ち満ちているというのが真実であると同時に、人の世には悪意が満ちているというのもまた真実なのである。数直線上で有理数の集合が稠密であると同時に無理数の集合もまた稠密であるように。(無理数が悪だといっているのではない。ピタゴラス教団じゃあるまいし)

 それらを全部ひっくるめて、私は出会ってきた人たちに、なかにはいやな奴もいたが、概ね親愛感をいだいてきたのだ。一期一会、ほんの数分程度の軽い触れ合いであっても、人がその表情の奥にそれぞれ喜びや悲しみの感情を息づかせているであろうことに思いをいたせば、自ずと親愛の情や連帯感が湧いてくるのであり、人を真底嫌いになったりすることはめったにできるものではない。

 そしてその人たちがマスとなったときの各種世論調査の結果や、TV画面などから伝わってくる街頭の人々の幼稚で愚かな発言の数々を見聞きするにつけ、私は猛然と腹が立ってきて嫌悪感すら覚えるのである。身近に親愛の情をいだいてきた人たちと、嫌悪感すら覚える愚かな政治感情を共有しているマスは別個のものではない。実は同種の人たちだからこそ、私の心は股裂き状態に陥るのである。

 先月私は当ブログの文章で、谷崎潤一郎が若い頃家族にいだいたアンビヴァレントな感情について書いた。局面こそちがえ、人は往々にして感情のアンビヴァレンスにさいなまれるものである。そのことがよく理解できていなさそうな論客の思想には基本的に脆弱さが潜んでいると感じることがときどきある。

 

 安保関連法案をめぐる国会審議の醜状については先に書いた。各種世論調査では、法案反対の意見がかなりの差で多数である。野党のなかでも共産党は筋金入りの反対であるが、民主党はこの世論に便乗して愚問を繰り返している。廃案に持ち込めば民意の喝采を受けることを知っているからこその行為である。

 では民意はなぜ法案に反対しているのか。「そんなこと知らんがな」というのが多数であろう。そして「戦争に巻き込まれる」という、誰かが用意してくれた決まり文句を自分の意見のようにして口にしたりする。

 この法律が施行されることで、戦争に巻き込まれるリスクはある。そして廃案になれば、そのリスクはさらに増大する。21世紀に生きる以上リスクゼロなどあり得ない夢想なのだ。

 日本が集団的自衛権を行使しない日米関係が続けば、アメリカが日米安保条約の破棄を決断するのはそう遠い将来のことではない。まして中国が南シナ海を領海化してこの地域に覇権を確立してしまえば、もはやアメリカにとってアジアに軍事力を置いておく意味がなくなる。日本の米軍基地も基本的には不要のものとなる。「基本的には」と修飾語を添えたのは、日本が独自に軍事力を持った独立国となることを阻止する意思がそのときアメリカにどの程度に強固なのかが未知数だからである。いずれにせよ、中国はレイムダック化したオバマ政権が続くあと1年半の間に南シナ海での決着をつけようとするだろう。

 日本の民意(多数派)は、前世紀の冷戦構造の世界でアメリカの属国として暖衣飽食をむさぼったときの世界観のままなのである。アメリカの属国であったからこそ、憲法9条を理想化して遊ぶ人たちもいた。

 アメリカが日米安保条約の破棄を通告してきたその日、「9条を守れ」と言っている人たちは、それを日本の自主独立回復の日として喜ぶのだろうか。自主独立を喜ぶのは立派な見識である。その見識は日本の重武装核武装を含む)を必要条件とするのだが、それだけの覚悟があるのだろうか。それとも中華帝国に呑み込まれ属国化することを容認するのだろうか。アメリカの属国であった時代は、日本人の多くがある種の快適さを感じていたのだが、今度は全然違うことぐらい猿でも分かる。

 日本の民意(多数派)は蒙昧の度が過ぎているのである。いかに「パンを求めてパン屋を破壊する」のが大衆の性向だといっても、いかに「魚を明日どうやって売ろうか」しか考えず情況に無知であるといっても、そしてそれが全世界の大衆に共通の性向であるとしても、国防は悪だというような思い込みを多数が共有している大衆は日本のほかにはない。「非武装国家コスタリカに学べ」などと言う人もいるが、日本と置かれている情況が全然違う。そしてコスタリカはたしかに憲法常備軍を廃止しているが、同時に非常時の軍備と徴兵を憲法で規定しているのだ。国防は悪だなどと言っているのは日本の大衆(多数派)と、それに便乗する一部の政治家や煽動する一部のマスメディアだけである。

 憲法学者の多くは安保関連法案を憲法違反であると言う。学者ならずとも、常識的な国語力をもって憲法を読めば、日本の安全保障政策は無理に無理を重ねる解釈改憲を実施してきたことが分かる。立憲主義の原則を曲げ、そして国防の見地からも不充分な今回の法案を提出せざるを得なかったのは、日本では憲法9条の改正が事実上不可能だからなのだ。日本を取り巻く国際状況の危機が日増しに切迫してきている今、憲法改正が不可能なままでこの危機に対応しなければならない為政者の苦悩を考えてみよ、心ある国民ならば。

 憲法改正はなぜ不可能なのか。衆参両院それぞれの総議員の3分の2以上の賛成で発議にこぎつけるというハードルの高さもあろう。国会議員の行動は民意によって左右されるので、改正を必要とする民意が高まれば、けして超えるに無理なハードルではない。今後の総選挙や参議院選挙の展開次第では、発議が実現することもあり得よう(どの条項の改正かにもよるが)。

 その民意が高まらないのが最大のネックである。仮に発議にこぎつけたとしても、9条2項に触れれば、国民投票で圧倒的多数によって否定されることは必定である。

 最近1年間の各種世論調査の結果を総合的に見れば、憲法改正に賛成と反対それぞれの意見はおおざっぱにいって、35対65ぐらいのものか。そしてこの35%の賛成の内には、9条2項を改正して非武装を明記すべきだとする意見からの賛成が10ポイント近くあるのだろうと推測する。日本が主権国家として常識的な軍備を保持できるような改正は圧倒的に不可能なのだ。

 日本人はけして愚かな民族ではない。優秀な人たちが各分野にたくさんいる。日々の生活でも、自然に身に備わった美風が随所で発揮されている。これらは、先人たちの培ってきた優れた文化の遺産を私たちが受け継いでいるからである。

 にもかかわらず、こと国防の問題となると、これにだけはなぜか思考停止の様相を示す。上に述べてきたような問題について、その愚かな思い込みの内容を論破するのは簡単である。実に幼稚な思い込みであるからだ。

 だが思い込みの内容を論破できても、思い込んでいるその人を論破することはできない。聞く耳を持たないからだ。あたかも頑迷な老人が、うつむきながら首をゆっくり左右に振っているかのような姿が思い浮かんでしまう。

 日本はなぜこんなことになってしまったのか。異様な言語空間である。

 学者、評論家、作家等々、改憲を主張する知識人たちは、この異様な言語空間をなぜ正視しないのか。まだ機が熟していないから、改憲の必要性を訴える言論活動を地道に積み重ねていかなければならないと考えているのか。吉本隆明が批判した「当為としての大衆」観か。あなたがほんとうに改憲を希求しているのなら、それを阻む大きな壁となぜ闘おうとしないのか。

 啓蒙活動が無意味だとは言わない。若者が改憲論者や護憲論者双方の著書を読んで、憲法について学ぶことにはおおいに意義がある。私も、憲法にかぎらず、知識人たちの様々な書物を読んで己の蒙を啓かれることはいくらでもあったし、知識人は私の感謝の対象でもある。

 だが書物を読んでものを考える人間は残念ながらごく少数である。大衆は政治問題に関しては、TVのワイドショーや娯楽番組化したニュースショーで何となく醸しだされる空気に感染しているのだ。その前で知識人の言論活動は残念ながら、再び孫蔵の言葉を借りるが、「屁をひったも同然じゃないがいして」。

 改憲の必要を訴える知識人の言論活動をさらに積み重ねても、上の世論調査の35(実質25)対65の比率を動かすことはできないだろう。日本の名目上の独立後63年の時間のなかで硬化し、あげくのはて液状化してしまったこの言語空間は、今さら啓蒙活動でどうなるものでもない。

 かく言う私は無学な非知識人である。特段学問上の訓練を積んだ経験を持たないし、知識の格別の集積もない。せいぜい「ほら、ここに難問がありますぜ」と指摘するぐらいである。できることはしようと思うので、こんな文章も書きたくなるのである。

 改憲を希求するのなら、なぜこの病んだ言語空間を正面に見据えて、格闘のなかで己の思想を築こうとしないのか。

 西部邁等、大衆を批判する知識人はいる。だがこの言語空間を切り開こうとして、格闘のなかで思想を構築したとも思えない。

 そんな格闘をしたところで、必敗の闘いであることは間違いないだろう。

 西郷隆盛が必敗の戦いに立ち上がったのは何のためだったのか。理不尽なことに死を賭して戦った者がいるという事実を後世に残すために、それだけのために、西郷は戦ったのだ。

 晩年に『南洲残影』を著した江藤淳もまた、必敗の闘いに半生を捧げた。政治評論と文芸評論の両方から、この病んだ言語空間を切り開こうとして苦闘した。それが後世に残る江藤淳の仕事だ。

 「棺を蓋いて事定まる」という言葉があるが、江藤淳は没後、足蹴にされたり、無視されたりと散々である。江藤が戦後日本の言語空間の禁忌を犯してしまったからなのか。

 吉本隆明はそんな没後の江藤について、「決してすぐに消えてしまう人ではなく、もう一度全面的に捉え直しがされる人だと思うし、その意味で、魂の永続性を失わない、生命のながい文芸評論家だと思います」(『中央公論特別編集 ―江藤淳1960』・2011年)と語っていたそうだ。(注)

(注)斎藤禎『江藤淳の言い分』(書籍工房早山・2015年)から孫引き。

 

 後世の史家が日本滅亡の原因を研究していくなかで、20世紀の終盤に孤独な闘いをしていた江藤淳に照準を合わせる日がきっと来るだろう。     (了)

谷崎潤一郎・入門の記

 

 もうずいぶん昔のことになってしまったが、20代の半ばに谷崎潤一郎の『細雪』を読んだ。

 私は高校生から大学1年生ぐらいまでの間は、人並程度には小説の類も読んでいたのだが、大学2年生からの4年間は文学作品に触れることがほとんどなかった。再び読むようになったのは卒業して1年ぐらいを経てからのことだった。仕事の余暇を利用しての読書だったのでさほど沢山は読めなかったが、それでも読書は大きな楽しみだった。

 『細雪』を読んだのはその頃である。内容はほとんど忘れてしまったが、面白く読んだ記憶は残っている。だがそれでこの作家に特に興味を持ったということはなく、とても高名な作家だという凡庸な知識以外には、何の関心も持たないまま40余年の歳月を経た。つい最近までだ。

 ところが先日谷崎の初期作品を収めた文庫本を1冊読んだだけで、突然この作家への関心がむくむくと湧き上がってきた。すこぶる面白かったのである。

 いったい今さらなんで急に谷崎潤一郎を読もうと思い立ったのか、ほんの1週間ほど前のことなのによく思い出せない。認知症でもない(そう思う)のに奇妙である。利用したネット書店では購入代金1,500円以上で送料無料になるので、3冊まとめて注文したことは覚えている。新潮文庫で『刺青・秘密』『痴人の愛』『春琴抄』の3冊である。

 何ものかに導かれて、谷崎潤一郎に再会したような気がする。だいたい出逢いというものはいつも何かに導かれて生じるものなのだ。

 けしてオカルト話をしようとしているわけではない。「何ものか」というのは私の潜在意識にある「何か」である。どこかで何かの拍子に谷崎潤一郎の名が私の脳にひっかかり、特に意識しないままそのひっかかりが成長していたのだろうと思う。

 

 『刺青』(明治43年)は谷崎24歳の処女作品である。冒頭の一文を下に引用する。

 

それはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。

 

 処女作にはその作家の本質が顕れていることが多い。そして一般に小説の書き出しには、その作品の核心を象徴するような一文が置かれることも多い。

 「それはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て・・・」―― 何という素敵な書き出しなのだろう。

 まだ読んでないが、『痴人の愛』とか『瘋癲老人日記』などの題名を見ただけで、愚かさへの谷崎の偏愛を予感させる。

 新潮文庫の『刺青・秘密』には、表題作を含め、初期の短編と中編が合わせて7編収められている。そのうちの中編『異端者の悲しみ』(大正6年)はこの作品集の中で異色の作品である。他の6編はいずれも特有の美意識で構築された虚構の世界を描いているのだが、『異端者の悲しみ』だけがほぼ事実に即した自叙伝である。美的雰囲気はなく、陰惨である。

 『異端者の悲しみ』は谷崎がまだ文壇デビューをする前の、自堕落で荒んだ生活をしていた日々を描いた私小説だ。親戚から学費の援助を受けて東大国文科に在籍していたが、学業を怠けてろくに出席せず、昼まで寝て、夜は酒色に溺れている。家族が寝静まった深夜に台所の料理用酒を盗み飲みするようなアルコール依存症でもある。級友たちからは遊興費を借りまくったうえで踏み倒し、軽蔑され、卑屈におどけてみせる。一家は貧しい長屋暮らしで、甲斐性無しの父親、気位が高く家事怠慢な母親、そして肺病で余命幾許もない寝たきりの妹(16歳)と一緒の4人家族である。妹の薬代は親戚の援助を受けているが、入院させるだけの経済的余裕がない。

 父は、昼になってもいぎたなく眠りこけている息子の尻っぺたを足で揺すって、涙ぐみながら説教をする。息子はそんな父を軽蔑しながらも、肉親としての情を断つことができない。

 

父を軽蔑すると云っても、勿論積極的に悪罵を浴びせたり、腕を捲ったりするのではない。それが出来るぐらいなら、彼は恐らく父に対して、これ程の不愉快を抱かないでも済んだであろう。父を全然他人のように感じ、他人のように遇する事が出来たなら、彼はもう少し仕合わせになり得る筈であった。自分を罵る者が他人であったなら、彼は容赦なく罵り返してやるだろう。誤解する者が他人であったなら、彼は直ちに弁解を試みるであろう。憐れな者、卑しむべき者、貧しき者が他人であったなら、彼はその人を慰め、敬遠し、恵む事が出来たであろう。場合に依ってはその人と絶交する事も出来たであろう。ただただその人が彼の肉親の父である為めに、殆んどこれに施す可き術がないのである。(『異端者の悲しみ』)

 

 章三郎(谷崎自身がモデル)は生意気な妹が小憎らしくて毎日のように悪態をつきあう。ある日、家族が隠してしまった料理用酒を探す章三郎を布団の中から妹が咎める。「あまっちょめ、生意気な事を云やあがるな!」と激昂した章三郎はさらに言葉を続け、「もうすぐ死んでしまうくせに」という禁句をすんでのところで呑み込む。さすがにその言葉は発しなかったものの、以心伝心、妹は氷のような冷ややかな瞳で兄を見つめる。妹に対してほとんど憎しみの感情さえ持っていた章三郎だが、彼女の臨終に際しては、悔恨の気持ちが、直接には書かれていないものの、行間にあふれている。この臨終の場面の描写は秀逸である。

 父に対しても、妹に対しても、肉親ゆえの憎悪と情愛のアンビヴァレントな感情が章三郎(=若き日の谷崎)の中で蠢いているのだ。健全(?)な家庭で育ってきた人にはよく理解できない苦悩だろう。親子が友だちのような仲で、思春期の反抗が微笑ましいエピソードとして語られるような健全な家庭で暮らす人たちは、谷崎のこの作品をもし読んだとしても、眉をひそめたくなるような不快感で受け止めるだけだろう。だがとにかく「ノーベル賞候補にもなった偉い作家」だそうだということで、谷崎潤一郎の名だけは崇拝の対象としている人たちも多いにちがいない。

 

 上記新潮文庫所収の他の6編は、不徳、残酷、恐怖、屈辱、卑屈などの劣情が絢爛たる美の装いをほどこされて展開する。その美は読み手の官能を刺激せざるを得ない。通底する感情を読み解けば、谷崎はマゾヒズムの快感を求めているようでもある。

 言葉を紡いで創出される美は、読者の視覚と聴覚を刺激する。夢幻の世界を描いた『母を恋ふる記』(大正8年)は海辺近くの闇夜と月夜を微にいり細にわたり視覚的に現出させると同時に、様々な音を描写した音楽的魅力も備えている。さらには嗅覚を刺激する場面もある。飯の炊ける匂いが、ほんとうに行間から立ち昇ってくるのだ。

 そして特記したいことは、これらの作品の娯楽としての面白さだ。作者は明らかに読者におおいに楽しんでもらおうとしている。人間の心の深遠を描くことと娯楽は両立するのだ。優れた作家のみが為し得る技だろうが。

 「これあんまり面白くなさそうだから、とばしてしまおうか」と根拠なき先入見をもって読み始めた『二人の稚児』(大正7年)など、あにはからんや、すぐに引きずり込まれ、わずか30数ページの短編にもかかわらず、物語の面白さを堪能させてくれたのである。

 

 まだ文庫本1冊で7つの短編と中編を読んだだけである。谷崎文学の入り口でしかない。だからこの文章のタイトルは「入門の記」なのである。この先どんな世界が広がっていくのか楽しみである。

 いくつかの予感がある。前記の「愚かさへの偏愛」も予感のひとつである。マゾヒズムもそうである。『母を恋ふる記』で描かれた母性への憧憬は、後の谷崎文学でどのような女性観に通じていくのかという興味もある。

 なお『母を恋ふる記』の最後の1ページは余計で、興醒めである。夢幻のまま閉じればよかったのにと惜しまれる。

 それはさておき、『母を恋ふる記』に最初は後ろ姿で登場する「母」は不気味な美女で、「七つか八つの子供であった」潤一少年はそれを狐の化物かと思ってしまう。しばらく続く不気味な場面の描写は、読者に、怖い怪談を読んでいるような恐怖心をも呼び起こす。私は読んでいて、ユング心理学のいうグレート・マザーを連想してしまった。子を呑み込み死に至らしめる母性の危険な側面だ。やがて美女は「母」であることを明らかにし、潤一少年を抱きしめる。潤一少年も抱擁のなかで甘美な気持ちに包まれる。これは気高い母性の描写であると同時に、恋人への思慕の描写でもあり、そして危険なグレート・マザーの出現でもあると思う。

 「入門の記」の段階でこれ以上妄想を膨らませるのはやめよう。あとは、もっと読んでから。

                            (とりあえず了)

 

江藤淳雑感(1)

 小谷野敦氏の近著『江藤淳大江健三郎  戦後日本の政治と文学』(筑摩書房)は刺激的な書である。

 若い頃江藤淳を耽読した私にとって、その読書体験を顧みる良い機会となった。

 というわけで、思いつくままに以下の文章をしたためた。長くなったので4分割する。 

 

*** 目 次 ***

(1)

【とっちゃん坊や】

【昂然とした姿】

【適者生存】

(2)

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

【公への責任感】

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき日本の戦後民主主義

(3)

【閉された言語空間】

【親米と反米】

(4)

【平成の逸民】

【師弟】

【轟く雷鳴】

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 

(以下敬称はすべて省略する)

 

【とっちゃん坊や】

 私が初めて読んだ江藤淳の文章は、昭和39年の秋に朝日ジャーナルに連載していた『アメリカと私』(注)である。

(注)小谷野前掲書のp.181に「江藤は、(昭和39年の:引用者注)九月から十一月まで『朝日ジャーナル』に『日本と私』を連載した。」とあるが、これは小谷野の思い違いである。『日本と私』の朝日ジャーナルでの連載は昭和42年のことである。

  私は当時政治についてほとんど無知で無関心の高校3年生であったが、政治少年のクラスメートから「おまえほんまなんも知らんのやなあ」と友好的に批判を受けたことがきっかけとなり、一念発起、朝日ジャーナルを読み始めたのである。定期購読を始めたのと『アメリカと私』の連載がスタートしたのが同時だった。

 とてもおもしろく読んで、次号の発売を待ち遠しく感じた記憶がある。しかし具体的にどのような感想を持ったのかということになると、まったく覚えていない。無知で無教養で幼稚な少年であったから、たいした読後感などなかったのだろうと思う。

 次に読んだのが、大学1年生のときに刊行が始まった講談社の『われらの文学 全22巻』(大江健三郎江藤淳が編集委員)のうち第1回配本(第18巻)『大江健三郎』(昭和40年刊)の中の江藤淳の解説文『自己回復と自己処罰 ―『性的人間』をめぐって―』だった。これも大江の作品は夢中になって読んだのだが、江藤の解説文についての読後感は覚えていない。たぶん私の方で江藤の文章についていくだけの素養がなかったのだろう。ちなみに当該シリーズの第22巻『江藤淳吉本隆明』は購入すらしなかった。

 以後学生時代に江藤淳を読むことはなかった。新聞や雑誌での江藤の文章は目にしたと思うが、印象に残っていない。朝日ジャーナルの『日本と私』(上記注)も当時読んでいた筈だが、まったく記憶がない。

 江藤淳の著作を貪るように読み始めたのは20歳代も半ばになってからのことで、30代にかけてまさに耽読した。

 それは私自身が大きく転回した時期でもあり、当時暗中でもがいていた私の心をとらえたのが江藤淳の著作だった。最初の一冊 ― きっかけとなった一冊が何であったのかについても、これまた記憶がない。気がつけば、仕事の僅かな余暇を利用し夢中になって次から次へと読んでいたのである。

 最初の一冊が何であったかの記憶がなくとも、『批評家の気儘な散歩』(新潮選書・昭和48年)、『一族再会 第一部』(講談社・昭和48年)、『海舟余波 わが読史余滴』(文藝春秋・昭和49年)などをこの時期に読んだときの胸の震えは今も忘れられない。『江藤淳著作集全6巻』(講談社・昭和42年、以下『著作集』と略記する)、『同・続全5巻』(昭和48年、以下『著作集・続』と略記する)も次々に読んだ。『著作集・続5』所収の講演録『考えるよろこび』(初出昭和43年)などは一言一句が五臓六腑に沁み渡ったものだ。

 にもかかわらず、私は江藤淳を崇拝することなどはまったくなかった。小谷野敦は若い頃江藤淳に「崇拝に近い気持ち」(小谷野自身の言葉)を持って「遠く仰いできた」そうだが、私は江藤に限らず誰をも崇拝はしない。尊敬はするが。

 江藤を読んでいるときにも、もしこの人が身近にいたならば仲良くはなれないだろうなというような違和感を持つことが時々あった。

 江藤の文壇デビュー作『夏目漱石』(初出昭和30年・三田文学)を読んだときにも、その書の魅力に引き込まれつつも、執筆当時弱冠22歳の青年がどうしてこれほどまでに成熟した人間観と洞察力を持ち、老成した文章を書けるのか不思議でならなかった。悪くいえばこまっちゃくれた奴だという印象が拭えなかった。

 江藤淳没後に、石原慎太郎が湘南中学(旧制)で江頭(江藤の本名)に初めて会ったときの印象を「とっちゃん坊やだった」と回顧している(文學界平成11年9月号・福田和也との対談)が、私が江藤のデビュー作を読んだときの印象もそれと似ている。

 また、江頭や石原など数人の湘南中生が歴史学者の江口朴朗(江頭の親戚)邸を訪問したとき、江頭少年と江口教授が横文字を交えて侃々諤々議論しているのを横目に眺めながら、2時間もの間石原ら他のメンバーにはチンプンカンプンで苦痛だったというエピソードも上記の対談で紹介されている。無知で無教養な私がそこにいたならば、江頭少年を殴りたくなったかもしれない。

 江頭少年はその後新制日比谷高校に転校したのだが、江藤淳の葬儀に骨を拾いに来る日比谷高校OBは一人もいなかったと石原は語っている。江藤の孤独を物語るエピソードでもある。

(注)通夜や葬儀への参列はあったのだろうと思う。福田によれば、「近年の文壇では稀な盛儀」であったそうだ。(『江藤先生の葬礼』文藝春秋平成11年11月号)

 

【昂然とした姿】

 講演等を含め、私は江藤淳の姿を直接拝見したことは一度もなかったが、いつも思い浮かぶイメージは、小柄な体の背筋を伸ばし昂然と胸を張っている姿である。そしてその昂然とした姿に対して、鼻持ちならないと思う劣情が当方に惹起されることも時にあったのだ。

 例えばである。江藤は週刊現代に見開き2ページの『こもんせんす』というコラムを長く連載していた(昭和48年~57年)。私も愛読していたのだが、昭和50年だったか51年だったか忘れたが、学習塾の講師という職に就く若者を批判する文章に接したときには、ずいぶん腹を立てたものだった。当時私は学習塾の経営に心血を注いでいたのである。

 その週の『こもんせんす』で『新しき“泰平の逸民”たち』と題されていた文章はその後単行本に収められた。『続々こもんせんす』(北洋社・昭和51年)である。

 江藤は受験戦争の中で育ってきたひ弱な若者が、大人になっても社会に出ることを回避し再び受験至上の世界にとどまって当面の生活費を得ていると嘆く。江藤にとっては大会社や官庁に就職することだけが若者のあるべき姿に見えるらしい。江藤はこの文章の中で、コックになる若者をも口汚く侮辱している。

 世には様々な職業があり、また人それぞれに様々な事情があり、大会社や官庁への道からはずれざるを得なかった者も社会の一隅で懸命に居場所を築こうとしていたのである。受験戦争の中で育ったからひ弱になり、そこから抜け出せないのだという江藤の意見は、この当時の受験戦争に対する紋切り型で薄っぺらな先入見に基いている。

 江藤はこのコラムを「そしてきょうもまた、代数の問題か何かを子供の前で解いてみせている。思うだに身の毛がよだつ話じゃないでしょうか。」という文で締め括っている。

 私は人格識見ともに卓越した同業者を何人か知っている。また子供たちの学習能力(教科を越えた学習能力そのもの)を真底から向上させてきた同業者も知っている。そこまで及ばずとも、塾講師はそれを職業として引き受けた以上、他者に価値を提供して報酬を得ているのである。子供の前で方程式を解いてみせることが仕事だと思い違いをしているような講師がもしいるのなら、そのような講師や塾はたちまちのうちに淘汰されてしまうにちがいない。

 江藤がこの文章を書いた当時は、マスコミの反塾キャンペーンが頂点に達していた頃である。そしてマスコミに誘導された世論を背景に昭和52年の文部省学習指導要領改訂で初めて「ゆとり教育」路線が導入された。(詳しくは拙文『理念なき国家の教育改革』参照→http://asread.info/archives/1434

 江藤淳ともあろうものが、流行りの風潮に便乗してものを言うのかと驚いたりしたものだ。

 というように、江藤の常に昂然と胸を張った姿には、「何だ、コノヤロ!」と反発することもあったのだ。

 しかしこの昂然とした姿勢の裏には、実は江藤の悲しみが隠されている。それは江藤の思想の核心で息吹いている感情であり、その悲しみと昂然と背筋を伸ばした姿との関係については、鈍い私でも江藤を読み込むことで次第に解ってきたのである。

 

【適者生存】

 私が江藤淳のイメージをいつも胸を張っている姿で思い浮かべるのは、やはり最初に読んだ『アメリカと私』から受けた印象が刷り込まれていたせいなのかなと、最近になって思うのである。冒頭で記したように、そのときの読後感の記憶は今はまったくない。当時の朝日ジャーナルももう手元にない。ただ写真を一葉だけ覚えている。プリンストン大学の構内を歩く江藤夫妻を横から撮った写真で、江藤は胸を張っていたと思う。後年購入した『著作集・5』に添付された月報が今手元にあるのだが、そこにはプリンストンの湖畔を歩く江藤夫妻の写真(朝日ジャーナルとは別の写真)が掲載されており、江藤はやはり背筋を伸ばし胸を張っている。

 『アメリカと私』は、江藤が29歳から31歳までの2年間、前半1年間はロックフェラー財団招請の研究員、後半の1年間は日本文学担当の教師としてプリンストン大学で過ごした滞在記である。

 敗戦後17年、復興したとはいえいまだ貧しい小国日本からやって来た小柄な江藤が大男や大女の中で揉まれながら、当初は慣れない英語を駆使して、単なるヴィジターとしてではなく、できることならこの国に「自分の署名入りの痕跡を残したい」と志した2年間であった。

 『アメリカと私』の連載第1回目は『適者生存』と題された文章である。

 プリンストンに辿り着く遥か手前、ロサンゼルスで夫人が激しい腹痛で倒れるというアクシデントに見舞われ、しかし休暇シーズンのため医者が容易に見つからず、孤軍奮闘右往左往する江藤の姿が描かれている。夫人はようやく翌朝入院することができ、短時日で無事退院するのだが、高額な医療費を請求された江藤はロックフェラー財団と交渉し、その全額を財団から受け取るに至るまでの異国での江藤の懸命の活動が描かれている。

 

 病人は不適者であり、不適者であることは「悪」である。「悪」は当然「善」であるところの適者に敗れなければならない。ところで、自分が、適者であることを証明するのもまた自分以外にはなく、この国では他人の好意というものを前提にしていたら、話ははじまらない。自分のことは黙って自分で処理するほかないのである。(同書)

 

 もちろん2年間孤軍奮闘し続けたわけではなく、江藤夫妻はプリンストンでの生活に溶け込み、夫人の誕生日にはホームパーティーを開いたりして教授たちとの親交を深めている。また、教師としても学生たちからの信頼を得ている。

 だが、訪米当初の「異質の文化のなかで、自分の同一性(アイデンティティ)を保とう」(同書)との覚悟は一貫している。プリンストンが江藤にとって「自分の町」であるかのような安息の場になってくるのに比例して、日本の歩みや現状の問題点が明瞭に見え始め、古事記・万葉に繋がる自己意識を再認識するのであった。

 ともあれ江藤は2年間のアメリカ滞在で、適者として生存し得たにとどまらず、学会での発表に対する好評の獲得、2年目にはRank of Assistant Professor(助教授待遇と訳せばいいのか)としての採用等、「自分の署名入りの痕跡を残す」ことにも成功したのである。

 この「適者生存」への意志は、敗戦後の日本を生き抜こうとした江藤の意志にも通じるものであった。

 なお江藤のアメリカ観については後述する。

 

↓(2)へ続く

 

江藤淳雑感(2)

*** 目 次 ***

(1)

【とっちゃん坊や】

【昂然とした姿】

【適者生存】

(2)

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

【公への責任感】

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき日本の戦後民主主義

(3)

【閉された言語空間】

【親米と反米】

(4)

【平成の逸民】

【師弟】

【轟く雷鳴】

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 

(以下敬称はすべて省略する)

 

承前

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

 江藤は慶応の大学院で担当教授との折り合いが悪かった。教室へ入って来た教授が江藤の姿を認めると、「今日は江頭君がいるから授業をしない」と言って出て行くなど、異常な嫌われ方をした。あげくのはて教授は江藤の文筆活動に難癖をつけ、退学を勧告するにまで至った。江藤は抗議の意味で授業料を納め形式的な在籍を続けたが、結局在籍2年間での退学となった。

 以後38歳で東京工大に奉職するまでの間、江藤は学生時代に結婚した妻を従え、ただ筆一本でのみ生計を支えたのである。文芸評論家江藤淳の力量と名声がそれを可能にした。

 漱石の研究は江藤のライフワークであったが、『漱石とその時代 第一部』(新潮選書・昭和45年、雑誌初出は42年)では、幼い金之助が読んだであろう『小学読本』の一節「必ず無用の人と、なることなかれ」を引用し、金之助が幼少期におかれた特殊な家庭環境に思いをめぐらせながら、学問が金之助にとっては単なる知的充足や社会的訓練への手引きでもなく、自己の存在の救済に結びついた行為であったろうと書いている。江藤にとっての文学もまた、敗戦後の喪失感覚を抱える自己の魂の救済であると同時に、「無用の人」となることなく適者たらんとして生きる意志に基づく行為であったのだろう。

 江藤が心に抱えていた喪失感は、一義的には、江頭家が戦前に属していた中間層から転落したことによってもたらされたものである。疎開先の鎌倉から戻って来た東京場末でのバラック生活がその悲哀を端的に表している。

 江藤の父方の祖父は海軍中将として明治日本の中枢で活躍した人である。江藤はその人を肖像写真と祖母や父から聞く話からのみでしか知らなかったのだが、幼い江藤の中では、日本の国家と祖父が重なって感じられていた。

 

 戦前の日本で、自分が国家と無関係だと感じた子供はいない。しかし私にとっては、それはある意味では祖父がつくったもののように感じられた。

(『戦後と私』・初出昭和41年・『著作集・続1』所収、傍線は原文では傍点…以下同じ)                           

  しかし敗戦によって私が得たものは、正確に自然が私にあたえたものだけにすぎない。私はやはり大きなものが自分から失われて行くのを感じていた。それはもちろん祖父たちがつくった国家であり、その力の象徴だった海軍である。私は第二次大戦中の海軍士官の腐敗と醜状を自分の眼で見る機会があったから、この海軍が祖父の時代の海軍と同じものではないらしいことに漠然と気がついてはいたが、それでも連合艦隊が消滅したことは心に空洞をあけた。(同書)

 

 そして生まれ育った新宿区大久保百人町の住宅街は戦災で軒並み焼き払われ、アメリカから帰国した翌年久しぶりに生家のあった付近を訪問した江藤は呆然とする。一帯がラブホテル(当時の言葉で“連れ込み宿”)の建ち並ぶ猥雑な光景になっていたのである。江藤は故郷を喪失したと感じた。

 さらに心の深くには、4歳半のときに死別した生母への根源的な喪失感がある。江藤自身の言葉に拠れば「私が世界を喪失しはじめた最初のきっかけである。」(前掲『一族再会』)そして江藤最晩年の未完の絶筆『幼年時代』(文學界平成11年年8月号・9月号)を、半年前に逝った妻と62年前に逝った母が二重写しになったかのような描写で書き始めている。

 江藤の喪失感は幾層にも重なっている。

 

 私はある残酷な昂奮を感じた。やはり私に戻るべき「故郷」などはなかった。しいて求めるとすれば、それはもう祖父母と母が埋められている青山墓地墓所以外にない。生者の世界が切断されても死者の世界はつながっている。それが「歴史」かも知れない、と私は思った。(中略)自分にとってもっとも大切なもののイメージが砕け散ったと思われる以上、「戦後」は喪失の時代としか思われなかった。(『戦後と私』)

  しかしいずれにせよ私は、戦後「正義」を語って来た人々のつくり上げた文化が、いまだにひとりの鴎外、ひとりの漱石を生み得る品位を得ていないということを直視するようにすすめたい。「平和」で「民主」的な「文化国家」に暮し、敗戦によってなにものも失わずにすべてを獲得したと信じ、その満足感がおびやかされることを「悪」の接近と考えている人たちに、戦時中ファナティシズムを嫌悪しながら一国民としての義務を果し、戦後物質的満足によっても道徳的称讃によっても報われず、すべてを失いつづけながら被害者だといってわめき立てもせず、一種形而上的な加害者の責任をとりながら悲しみによって人間的な義務を放棄しようとは決してせず、黙って他人の迷惑にならないように生きているという人間もいるということを知っていてもよいだろうというのである。(同書)

 

 「喪失の時代」として戦後を受け入れるしかなかった江藤は、戦後を「平和」と「民主」の「正義」の時代だとして謳歌する九十九人を軽蔑し、憎んだ。

 この戦後日本に蔓延した(今もさらに強固である)欺瞞と闘い続ける意志が、江藤淳の旺盛な言論活動の底流にあった。

 

 私は若い頃のある日、友人に「歴史は進歩し建設が進んでいくものではなく、崩壊していくものだという江藤淳の歴史感覚に惹かれる」と語ったことがある。どの著作からの引用であったかは忘れた。TVでの発言であったかもしれない。いや江藤の直接の言葉ではなく、インスパイアされた私の造語だったかもしれない。そのへんの覚えはないが、その会話が昭和47年のものであったことは明瞭に覚えている。いまだオイルショックには見舞われず、日本の経済成長は順風満帆に進んでいるかに見える時代だった。彼女はきょとんとして聞いていたが、「危ない人だ」と思ったかもしれない。

 

【公への責任感】

 江藤淳にとって、「私」と「公」は二元的に対立する概念ではない。メビウスの帯のごとくに表と裏の区別なく繋がっている。

 母との死別、階層の転落による悲哀、さらには結核による長期の療養と学業の遅れなどは、一義的には私ごとに属する喪失感である。そして祖父の肖像に重ねて見た国家の敗北と海軍の喪失、これらが国の敗北で傷ついた弱い父への責任感を喚起し、その一点で私的な喪失感は国家への責任感に通じていくのだ。

 

 この世界(引用者注:戦後の日本)には実は私権などというものは存在しない。なぜならこの世界には公的なものが存在し得ないからである。「ごっこ」の世界とは、したがって公的なものが存在しない世界、あるいは公的なものを誰かの手にあずけてしまったところに現出される世界、と定義することができるかも知れない。それなら公的なものとはなにか。それは自分たちの運命である。故に公的な価値の自覚とは、自分たちの、つまり共同体の運命の主人公として、滅びるのも栄えるのもすべてそれを自分の意志に由来するものとして引き受けるという覚悟である。それが生甲斐というものであり、この覚悟がないところに生甲斐は存在しない。よってわれわれには生甲斐は存在しないのである。              

 私権というものは、もともと公的な価値との緊張関係がないところには存在することはできない。現にわれわれの周囲にあるのはわたくしごとだけである。(『「ごっこ」の世界が終ったとき』初出昭和45年、『著作集・続3』所収)                           

 

 引用者として補足すれば、私権と公的な価値との緊張関係とは、けして「私」と「公」を二元的に捉えた言葉ではなく、メビウスの帯内での緊張関係であると思う。

 それはさておき、江藤はここで、公的な価値すなわち自分が属する共同体の運命の主人公であるという覚悟を持った「私」の欠如を戦後日本の病と捉えているのである。そして少なくともこの文章を書いた昭和45年の時点では、江藤は(きわめて困難な道ではあるが)「戦後」が終わること、日本人が真に自分の運命を自分で決定する国家を持つ時代が到来することに一縷の望みを繋いでいるのである。だからこそ題名が「終ったとき」となっていて、そこに望みを託しているのである。

 そのための言論活動が江藤の国家に対する責任のとり方である。

 

 それ(引用者注:真の自主独立)はいうまでもなく現実の回復であり、われわれの自己同一化(アイデンティティ)の達成である。そのときわれわれは、自分たちの運命をわが手に握りしめ、滅びるのも栄えるのも、これからすべて自分の意志で引き受けるのだとつぶやいてみせる。それは生甲斐のある世界であり、公的な仮構を僭称していたわたくしごとの数々が崩れ落ちて、真に共同体に由来する価値が復権し、それに対する反逆もまた可能であるような世界である。われわれはそのときはじめてわれにかえる。そして回復された自分と現実を見つめる。今やはじめて真の経験が可能になったのである。(同書)                       

 

 江藤の責任のとり方は「治者」の論を説くことである。「治者」とは自分たちの共同体の運命への責任を自覚する者のことである。「平和ごっこ」をしている者たちにその自覚はない。(ちなみに「平和ごっこ」は私の造語で江藤の言葉ではない)

 江藤が勝海舟を高く評価するのも、そこに「治者」のあるべき姿を見出したからである。

 海舟は江戸の無血開城に尽力し(というよりもそれを主導し)、英仏が薩摩と幕府それぞれに仮託して代理戦争を戦わせる修羅場になる危機から日本を救った。幕臣でありながら、したがって「裏切り者」の誹りを浴びながら、薩長への条件降伏を主導したのは、海舟に幕府を超えた「日本」という国家意識と国際情勢への高い見識があったからである。

 無血開城にとどまらず、維新以後も、条約改正をめぐる国内の争い等、明治初期のたびたびの国家分裂の危機を、海舟は明治政府の縁の下の力持ちとして、回避せしめた。

 勝海舟なかりせば、まちがいなく日本は諸列強に分割され、植民地の悲惨に陥ったであろう。

 同じく幕臣であった福沢諭吉は、「自ら自家の大権を投棄し」しかも敵方の薩長が打ち立てた明治政府に出仕する海舟を厳しく批判した。これに対し海舟は寸鉄人を刺す短文で応じただけで、一切の弁明をしなかった。曰く「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」(前掲『海舟余波』より)

 「国唯自亡」という海舟の言葉、つまり「国と云うものは、決して人が取りはしない。内からつぶして、西洋人に遣るのだ」という意味の危機感(『勝海舟』・初出昭和43年、『著作集・続3』所収より)は平成の日本人こそが肝に銘ずべきである。たぶん聞く耳を持たぬ者が圧倒的多数だろうが。

 

 私がここ四半世紀以上にわたって日常接してきた人たちのなかには、生活のいろいろな局面で「治者の発想」に接しただけで、それが何か悪いことであるかのように反応し、あるいはせせら笑い、善良な「私人」にこそ正義があるかのように言ったり振る舞ったりする人が少なからずいた。「治者」の「治」は「自治」の「治」でもあることを知らないのだ。

 

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき戦後日本の民主主義】

 30歳前後の2年間、江藤はプリンストンに受け入れられていくのに比例して、自分のなかの日本を明瞭に意識していくことにもなった。「主張をすてることによってではなく、主張することによってうけいれられて行く」(『アメリカと私』)というプリンストンでの快適さは、日本の知的世界を覆う理不尽な不自由さからの解放感と一体であった。日本では「あたかも戦前の天皇神権説に比すべき強力さで、戦後の国体である「平和」と「民主主義」という理念の周囲をしめつけているタブー」(同書)が存在した。そこでは、「明治以来の日本の外交政策を弁護しても、それは「戦後民主主義」に対する冒瀆」(同書)だといわれたりしていたのだ。日本の社会には温かさがあったが、それは同時に江藤のなかの「なにか」を弾き返す社会でもあった。   「孤独であることは、ここでは「悪」ではなくて、強さのしるしとされた。淋しい人間が周囲にいくらでもいる以上、淋しさは常態であって、特別な病気ではないからである。」(同書)

 日本人である江藤夫妻に対し友好的な態度をとる市井のアメリカ人に、江藤が不快な感情を持つこともときにあった。

 老未亡人宅の茶会に招かれたとき、日本の伝統工芸品である見事な鍔がいくつもクローゼットの把手がわりに釘で打ちつけられている光景を見て、江藤は怒りを覚える。夫人が以前高名な経済学者の夫とともに日本を訪れたときに購入したものだそうだ。原爆製造のマンハッタン計画で重要な役割を果たした物理学者を紹介された江藤は、ずらりと並んだ釘付けの鍔の前で、原爆製造の当事者と歓談することになる。もちろん個人的な恨みなどないのだが、それは江藤にとって苦痛のひとときだった。

 この未亡人と付き合いがある別の老未亡人は、真珠湾攻撃は卑劣だという彼女の嫌悪感を、江藤夫人に対し食事のたびに3日連続で力説し続けた。江藤によれば、老婦人の恩着せがましい親切心で、道徳的に劣等な野蛮国民を善導してあげようという善意の発露であったそうだ。江藤夫人は老未亡人が思っていたような従順な日本人形ではなかった。大喧嘩になったようだ。「収容されていた婦女子の半数以上が死んだ、北鮮の収容所から脱走してきた家内に、戦争が道徳的意志の表現だという神話が通用するはずはなかったからである。」(同書)

 

 プリンストンの知的風土は、江藤にとって、ある意味では東京のそれより自由であった。米国批判イコール反米と考える事大主義者もいなかった。

 

 私の印象では、米国人は、占領時代に自分の手で移植したはずの戦後日本の「民主主義」を、肚の底では当の日本の「民主主義」擁護論者ほど信用していないように見えた。これは、彼らのいわゆる“Democracy”が、普遍的理念であるよりさきに、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」の別名として、ほとんど無意識のうちに、むしろ感覚的に理解されていることを思えば当然である。「ジャパニーズ・ウェイ・オブ・ライフ」が、彼らの「ウェイ・オブ・ライフ」と似ても似つかぬものである以上、異質の「ウェイ・オブ・ライフ」によって生きている日本の知識人たちが、「民主主義」擁護のための、しかも反米闘争に立ち上がる、といっても、米国人に話が通じにくいのは、あながち無理はなかったのである。     

 つまり、“Democracy”とは、米国人にとっては他の何であるよりさきに、彼らのナショナリズムの象徴であった」(同書)

 

 理念としての「平和主義」と「民主主義」を掲げる戦後日本の国の基礎は経済成長であり、そこでは国家意識が稀弱であった。

 

 もし「近代化」というなら、「近代」の意識と「統一国家」の意識が不可分であることを、つとに歴史家は指摘している。国家意識の稀弱化の上に進められる「近代化」とは、したがって片輪な近代化でなければなるまい。さらに、戦後日本の「平和主義」と「民主主義」は、一面疑いもなく普遍妥当な理想であろう。が、半面それが連合国の戦後の極東政策によって方向づけられて来たことも、動かしがたい特殊な歴史事実である。 

 いずれにせよ、二年間の米国生活を通じて、私は戦後の日本をきわめて異常な状態にある国とながめざるを得なかった。それは国家であることをためらっている国家であり、民族の特性を消去することに懸命になっている民族である。(『国家・個人・言葉』朝日新聞昭和39年6月14~16日、『著作集4』所収)                       

 

 

 昭和40年代半ばから今日に至るまで、このような時代精神に覆われた社会で暮らすのは、私にとってきわめて不快なことだった。個々の具体例などここには書かないが、日常生活の場面で、薄っぺらで紋切り型の正義感を振り回す卑劣漢に出くわすことは一度や二度ではなかった。私が日常接する人たちは、人柄が良く、学歴や社会的地位が高い人も多かったが、憲法9条のおかげで日本は平和なのだという思い込みを、空気を吸うように自明のこととしている者が大多数だった。それについてほんの1センチ考えを進めることすらしない人たちだった。不気味だった。軽薄な政治談議が始まると私は耳を塞ぎたくなった。憲法を、あるいは朝日新聞の論調を相対化して考えてみようとする者には、それだけで、「あいつは右だぜ」とレッテルを貼っていた。そういうレッテルを貼ることで、ほんの1センチ進めるべき思考を自分たちの理解のレベルにまで引きずり降ろして安心するのだ。その先に、日本の次世代がどのような苦難に満ちた運命を背負わなければならなくなるかということについて、彼らには想像力が絶望的に欠けていた(あるいは欠けている)。日本の安全保障政策に道徳的反感を示し、その先に待ち受けている巨大な道徳的悪には思いも及ばない。学校で道徳が教科化されるそうだが、今日の日本で、いったい誰がどの面(つら)下げて子供たちに道徳を教えようというのか。

 上に「昭和40年代半ばから」と書いたのは、それまでの私は学生であり、仲間たちと政治、歴史、思想などについて侃々諤々そして楽しく議論を交わすことが日常茶飯だったからだ。十人十色ずいぶんいろんな奴がいると思ったものだが、後になって振り返ると、やはり類をもって集まっていただけなのだろう。以後は上に書いたような圧倒的多数の人たちのなかで、私は政治談議には聞こえなかったふりをして、基本的に愛想よく消光してきたのだった。

 腹ふくるる思いをしながら、書物を通して出会う賢者だけが私の真の話し相手だった。江藤淳はその賢者の一人だった。

 仕事の余暇を利用した僅かな読書時間だったが、その僅かで貴重な時間をとり上げられたら、私の心は生存できなかったと思う。

 

↓(3)へ続く

江藤淳雑感(3)

*** 目 次 ***

(1)

【とっちゃん坊や】

【昂然とした姿】

【適者生存】

(2)

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

【公への責任感】

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき日本の戦後民主主義

(3)

【閉された言語空間】

【親米と反米】

(4)

【平成の逸民】

【師弟】

【轟く雷鳴】

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 

(以下敬称はすべて省略する)

 

承前

【閉された言語空間】

 「戦後の日本をきわめて異常な状態にある国とながめざるを得なかった」江藤淳は、「この状態をいつまでもつづけるわけにはいかぬはずである」(前掲朝日新聞の文章の続き)と希望を持っていた。

 しかし昭和の時代が深まるにつれ、この異常な言語空間の頑迷さは一層硬化しつつあった。

 江藤は昭和53年から54年にかけて、敗戦直後の言論状況の調査から始め、占領中の「言論の自由」がいかなるものであったかについて考察した。

このなかで江藤は、ポツダム宣言の受諾について、無条件降伏をしたのは「全日本国軍隊」であって、日本国は条件つきの降伏だったと主張し、大きな論争が展開された。以上は『忘れたことと忘れさせられたこと』(昭和54年・文藝春秋)にまとめられた。

 この論争について小谷野敦は拙文冒頭に記した書『江藤淳大江健三郎』で、「意味不明な論争」だと書く。「要するに「無条件降伏」という語の定義の問題で、ポツダム宣言を無条件で受諾したら無条件降伏とも言えるのであり、論争自体がむなしい」という小谷野の指摘には、成る程と納得できる。

 にもかかわらず、有条件降伏説にこだわる江藤の心情に私は関心を持つ。自己卑下するなと、江藤は言いたかったのである。それは徹底した日本解体を実施したGHQに対する怒りから発したものだ。占領下での実質GHQによる憲法制定は不法行為であったにもにもかかわらず、占領終了後も後生大事にその憲法を拝み続ける日本人への哀しみである。江藤の怒りと哀しみはいつも一体である。

 ウイルソン研究所の派遣研究員としてワシントンDCに滞在していた昭和55年に『一九四六年憲法 ―その拘束』(文藝春秋)を著した江藤は、メリーランド大学付属の図書館と合衆国国立公文文書館分室にも通い詰め、占領軍当局の実施した検閲の実体をつぶさに調査した。その結果著された『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(初出昭和57~61年、単行本は平成元年・文藝春秋)は江藤淳の数多い著作の中でも最も話題を呼んだうちのひとつである。

 この書は、「私たちは、自分が信じていると信じるものを、本当に信じているのだろうか?」という問いかけで始まり、「私は、自分たちを閉じ込め、拘束しているこの虚構の正体を、知りたいと思った」(同書第一部第一章)という問題意識のもとに成し遂げられた詳細な実証研究の成果である。占領終了後も日本が自縛に陥ったまま、歳月を経るにつれその虚構を硬化させている病根に迫ろうとしたものである。

 被検閲者にタブーを伝染させていくCCD(民間検閲支体)独特の有効なシステムと、CI&E(民間情報教育局)がメディアや学校教育を通じて浸透せしめるWGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム…戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)が車の両輪となり、敗戦国民日本人へのマインドコントロールは完璧にまで達成された。WGIPの存在は江藤によって初めて日本人の前に明らかにされた。検閲は、その検閲の存在それ自体を隠蔽する巧妙なシステムの中で行なわれた。これも江藤によって白日のもとにさらされた。

 この書は論壇で多くの批判を受けた。資料の扱い方等実証性に問題があるとする意見、牽強付会の江藤のプロパガンダだとする意見、あるいは江藤のアメリカに対する甘えの上に立った馴れ合い的な陰謀論であるとする意見等々である。

 その適否を判断する能力は私にはない。占領終了後もタブーを相対化しようとしない日本人への江藤のメッセージは受け止めるべきだろうと思うのみである。

 中国・韓国・北朝鮮・(場合によってはロシアも)に包囲されるなかで、アメリカの核の傘の欺瞞も明らかになってきている今日、日本の死活に関わるシーレーンである南シナ海を中国が領海化しようとして動き始めている今日、その今日でもなお、日本では安全保障政策について考えること自体に道徳的反発をする国民が過半である。憲法9条を守れと言う。

 TV画面の中でコメンテーターは、安全保障政策に対置して「日本は文化大国たれ」と与太る。なぜこの二つが対置されるべき概念なのか理解に苦しむが、TVの前の愚民たちは唱和して、「みんな仲良くするのが最大の安全保障なのだ」などと言う。良い子の学級会だ。

 閉された言語空間で受けたマインドコントロールは解けないままなのである。江藤が昭和39年に「きわめて異常な国」と嘆きつつもその克服に希望を繋いだ言語空間は、昭和の深化とともに硬化し、今や液状化に転じて腐臭を放っている。

 小谷野は『江藤淳大江健三郎』で、「(前略)押し付けだろうがなかろうが、九条のような現実に適合していない条項は改めるのが当然のことで、改憲派の、押し付けだからという理由づけと、護憲派の、日本人はそれを受け入れたとか選び直したとかいった論争はまことにバカバカしい、ことがらの本質を誤ったものである」と書いている。しかし「現実に適合していない」その現実を見ようとしない異様な言語空間をもたらした歴史的経緯というものはあるのであり、憲法の制定過程を含む占領政策及び占領終了後に日本が辿った軌跡を踏まえて考えることは必要であろう。

 

【親米と反米】

 小谷野は『江藤淳大江健三郎』で、江藤の政治思想にある反米姿勢に疑問を投げかけている。地政学上、日本はアメリカとの同盟なくしてやっていけないはずだ、という趣旨である。

 そこで以下に、日本がおかれてきた、親米と反米がもつれたややこしい事情について考えてみたい。

 日本が講和条約発効後も占領憲法(特に9条2項)を押し戴いてきたのは、何も日本国が崇高な精神を持っていたからではない。金儲けがしたかったのである。

 金儲けは悪いことではないし、戦災で廃墟となった日本を復興させていくために、経済の再建は最重要事のひとつであった。講和条約発効後つまり日本の一応の独立後も、憲法9条2項の規定を逆用して国の防衛はアメリカに依存し、経済再建に全力を注ぐという吉田茂内閣の方針は、目先の国益だけについていえば賢明な策であったろう。だが、吉田茂に20年、30年先を見通す見識はなかった。後年政界引退後に吉田は、国防問題をタブーとしてきたことは誤りだったとして反省の発言をしている(昭和39年、首相当時の吉田の軍事顧問を務めていた辰巳栄一元陸軍中将への発言)。

 講和条約締結前後の世論はむしろ日本の再軍備を容認していた。例えば昭和26年9月20日の朝日新聞が発表した世論調査を見ると、日本の再軍備に「賛成71%・反対16%・わからない13%」という結果となっている(竹内洋『革新幻想の戦後史』平成23年・中央公論新社)。

 しかし日本経済の高度成長が始まり、人々が物質的豊かさを享受するようになって、より豊かな生活へと欲望が肥大していくにつれ、国防をアメリカに依存している心地よさが社会を覆ってきた。「平和憲法」を理想化し始めたのだ。WGIPに教わったままに邪悪な過去を反省し、「平和と民主主義」の正義を掲げるその旗の裏には、旺盛な物質的欲望の絵が描かれていた。

 だいたい「平和」と「民主主義」をワンセットとして掲げる発想自体が、その「正義」の軽薄さを表していた。民主主義に導かれて遂行される戦争はいくらでもあるのだ。

昭和32年2月に政権を掌握した岸信介は、日本の自主独立の理想とそのためのグランドストラテジーを持った政治家だった。しかしその第一歩である日米安保条約の改定に漕ぎつけただけで、岸の志は頓挫してしまう。

 昭和35年の反安保運動は戦後最大の国民運動だったが、国民のほとんどは安保条約改定の意味を理解していなかった。日米開戦当時の商工大臣であった責任を問われA級戦犯容疑(後に不起訴)で巣鴨に拘留されていた岸に悪の面影を読み取った大衆は、衆議院での強行採決を見て、一挙に反岸の感情を爆発させたのだ。そこには一種の反米カタルシスも含まれていた。

 江藤淳石原慎太郎も「若い日本の会」を結成し、反岸の活動に奔走した。

 全学連で反安保闘争を闘った者たちも、西部邁が『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(昭和61年・文藝春秋)その他の著書で繰り返し書いているように、新条約と国際政治及び国際軍事の関係については無知でさらには無関心だった。

(注)なお『江藤淳大江健三郎』のp.145に、「全学連から分かれた急進的革命組織「ブント」に属して活動していたのが、西部邁柄谷行人である」とあるが、この記述は正しくない。西部らブントは全学連主流派を形成したのであり、反主流派が民青日本共産党の下部組織)だった。同頁で書かれている国会突入事件は主流派、ハガチ―事件は反主流派が主導した。

 

 岸首相の意図は、旧安保条約の不平等性を解消し、アメリカの日本防衛義務を規定する双務的な条約に改定しようとするものだった。そして次の段階で憲法改正へと進み、日米同盟堅持のもと、日本の主権回復を図ろうとしていた(憲法9条2項は主権制限条項である)。この第二段階は未だ政治日程に上っていなかったが、新安保条約の参議院での自然成立を見届けただけで、岸内閣は総辞職を余儀なくされた。

 主権制限条項を持つ憲法を保持したままでの日米安保条約ということになると、自主防衛ができない日本はひたすらアメリカにしがみつき、生殺与奪の権を握られた属国として生きのびるしかない。

 日本の国民は、戦後最大の国民運動によって、日本の対米従属の永続化をもたらしてしまったのだ。この大衆感情の爆発を見た以後の代々の政権は、憲法改正論議をタブーとして事実上封印してしまったのだから。

 東西冷戦構造の世界では、日本はアメリカの極東戦略の重要基地としての役割を果たし、アメリカの核の傘の有効性が未だ東側に信じられていたこともあって、日本は安全を享受し経済成長にいそしむことができた。日本国民の多くは、憲法9条のおかげで平和なのだという迷信を信じ込み、奴隷の平和をむさぼっていた。9条は世界に誇るべき宝だなどというのは、冗談でなければ、愚かで卑しい精神が生み出したスローガンだ。

 冷戦終結後、世界のパラダイムが大きく転換したときは、日本に見識と覚悟さえあれば、主権回復をアメリカに主張する最後のチャンスだった。

冷戦終結直後から世界の一極支配に乗り出したアメリカのホワイトハウス国防総省は、日本を「潜在的な敵性国」と認定し、日本に対し封じ込め政策を実施することを決定した。1992年(平成4年)に作成されたその機密文書は、何者かによってニューヨークタイムズワシントンポストにリークされた。

 ならば日本は、冷戦期にアメリカに忠実に寄与してきた貢献を主張し、将来の東アジアの安定のために果たす自立した日本の役割を説くべきであった。アメリカは、東アジアにおける日本の自立を阻止する政策を戦前以来今日に至るまで一貫して採り続けているのだが、事の成否はともかく、新たな日米関係のあり方と同盟の必要性をこのとき強く主張すべきであった。しかし日本の政治にそのような見識も覚悟もなく、一方的に「潜在的な敵性国」と烙印を押されたまま、属国であり続け、経済的にも大きく収奪されてきたのである。

 2年間のプリンストン生活の終り近くに、江藤は「私はこの国(引用者注:アメリカ)と不幸な恋愛をするくらいなら、親しい友人にとどまっていたい」(前掲『国家・個人・言葉』)と書いている。

 尖閣をめぐって中国との摩擦が顕在化するたびに、日本はアメリカの反応を窺ってはらはらしている。そして「尖閣諸島は日本の施政下にあり、安保条約の適用対象である」というリップサービスをしてもらうつど、「ああ、あの人は今も私のことが好きなんだ」と胸を撫でおろしている。これを「不幸な恋愛」というのだ。

 尖閣が日本の施政下にあることは認めるが領有権に関する双方の主張については中立の態度をとるというアメリカのスタンスには、中国が武力侵攻で尖閣を施政下におけばもはや安保条約の適用対象たり得ないという含意がある。尖閣への安保適用を明記した2014年(平成26年)の日米共同声明に併せた共同会見で、オバマ大統領は「(日米安全保障条約)第5条は尖閣諸島を含む日本の施政下にあるすべての領域に適用されます」と言明しているが、第5条には議会の承認がなければアメリカは武力行使をしないという含意がある。

 日米安保条約は、アメリカが善意で属国日本を守るためにあるものではない。アメリカにもいろいろ都合があるのだ。

 かつて日本の軍国主義復活と日米安保条約の存在に強い懸念を示した周恩来総理にキッシンジャー大統領補佐官は、そんな心配は無用であると、噛んで含めるように説明した。「強い日本は総理が挙げられたような傾向を潜在的に持っています。(中略)実際、在日米軍パラドックスを作り出しています。なぜならば、我々と日本との防衛関係が日本に侵略的な政策を追求させなくしているからです。(中略)ですから、総理、日本に関しては、貴国の利益と我々の利益とはとても似通っています。どちらも日本が大々的に再軍備した姿を見たくありません。そこにある我々の基地は純粋に防衛的なもので彼ら自身の再武装を先送りにすることができます。」

周恩来キッシンジャー第1回会談・1971年、『周恩来 キッシンジャー機密会談録』・岩波書店2004年)

(注)この会談録は30年間の機密保持期間を経た後の2001年に公開されたものである。ほぼ全容が明らかになったとはいえ、いまだ開示されていない部分が若干ある。そこに尖閣に関する密約が隠されているのだろう、というのが私の勝手な憶測である。

 

 いわゆる「安保=瓶のふた」論である。岸信介の志は大きく曲げられてしまった。

 日本にはアメリカを頼みとする親米派の政治家、論客、メディア等が多い一方、日本の自立を阻止し収奪しかつ自己の世界戦略のために利用ばかりするアメリカへの反発に燃える反米保守の論客たちもいる。

 現実に日本はもうアメリカなしにはやっていけない状況に陥っているのだが、いずれ中期的にはアメリカが国力の衰えによってアジアから手を引かざるを得なくなる事態も不可避である。中国がしばしば提案しているような中米による太平洋分割案も近未来の現実である。

 日本は名目上の独立を得て以来63年間のあいだに、自主独立への道に踏み出すチャンスが三度あった。そのチャンスをいずれも「自主的に」見送りあるいは投げ棄て、アメリカにしがみついてきたのだ。もうこの先はどうしようもない。

 西部邁に代表される反米保守の思想は、アメリカなしにはやっていけない現実の前に無力である。非武装中立論のような空想的平和主義の対極にありながら、反米保守もまた空想的である。しかしその思想は、私たちが陥ってしまったアポリアについて顧みる機会は与えてくれるのである。それだけである。

 江藤は『日米戦争は終わっていない 宿命の対決―その現在、過去、未来』(ネスコブックス・昭和61年、追補新版は文藝春秋・昭和62年)で、「日本が日本本土に対する脅威に対して、独自に対処する防衛力をもつことを容認しない」と明言しているアメリカに対し、「日米の終わりなき戦い」を意識している。しかし同時に平成8年の橋本・クリントン会談の際には、『日米同盟―新しい意味付け』(平成8年『保守とは何か』・文藝春秋所収)で日米同盟の深化を無邪気に喜んでいるのである。

 小谷野が疑問を投げかけたように、江藤には親米と反米のややこしい心理のもつれがあるのであり、それはけして江藤ひとりの問題ではないはずだ。

 

↓(4)へ続く

江藤淳雑感(4)

*** 目 次 ***

(1)

【とっちゃん坊や】

【昂然とした姿】

【適者生存】

(2)

【「喪失」の時代と「正義」の時代】

【公への責任感】

ナショナリズムとしてのデモクラシーと国家意識なき日本の戦後民主主義

(3)

【閉された言語空間】

【親米と反米】

(4)

【平成の逸民】

【師弟】

【轟く雷鳴】

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 

(以下敬称はすべて省略する)

 

承前

【平成の逸民】

 上記『日米同盟―新しい意味付け』がそうであるように、平成期の江藤の政治評論は凡庸で退屈である。平成に入ってからも旺盛な言論活動は続き、多くの政治発言を為したが、この時期の政治評論文はほとんど読むに価しない。

 平成改元直後に江藤は大行天皇を偲び、「我ハ先帝ノ遺臣二シテ新朝ノ逸民」という言葉を思い浮かべる(平成元年1月17日読売新聞、『天皇とその時代』平成元年・PHP研究所所収)。事実平成の皇室に批判的な文章を著したこともあった。

 平成期の江藤淳の代表作は『南洲残影』(平成10年・文藝春秋、雑誌初出は平成6~10年)である。

 昭和40年代に江藤が共感をもって描いた勝海舟は政治的勝者であった。属した幕府は敗者だったが、海舟は「治者」の論理を持った政治的勝者だった。それに対し西郷隆盛維新回天の勝者だったが、明治初期の時代の政治的敗者だった。

 海舟が亡き友西郷に贈った漢詩や薩摩琵琶歌の詩句によって『南洲残影』は書き始められる。海舟もまた旧幕臣としての敗者の心の傷を持ち続けた人である。その詩歌は敗者「南洲氏」への追慕の真情に溢れた哀切なメロディを響かせている。

 西郷は「拙者儀、今般政府への尋問の廉有之…」の言葉で、必ず敗けるに決まっている戦いを始め、反乱の兵を挙げる。外国からの軽侮や士族の困窮等々、政府に尋問すべきことはいろいろあったろうが、国の崩壊を喰い止めようという勝利への意志はなく、死を賭して喰い止めようとした者たちがいたという事実を歴史に残すためにこそ西郷は挙兵したのだと江藤は見る。

 政治学者の岩田温(執筆当時は大学生)はその著書『日本人の歴史哲学 ―なぜ彼らは立ち上がったのか―』(展転社・平成17年)の中で江藤のこの書を受けて、「後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。歴史の中で自らを犠牲にしても国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそが西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではないか。」と書く。

 「敗北への情熱に取り憑かれていたかのように」西郷と私学党の兵たちは滅びていった。他にも熊本隊、飫肥隊、佐土原隊、中津隊から参加した兵も西郷に殉じて滅びた。

 城山に散った西郷は「六十八年後には日本が連合国に敗れて六年有半のあいだ占領の屈辱を嘗めることを、何一つ知る由もなかった」(『南洲残影』)が、江藤はこの必敗の戦いに立ち上がった西郷に、必敗の戦端を開いた大東亜戦争を重ねて見ている。

 『南洲残影』は編集者からの強い依頼を受けて着手した仕事だったが、西郷軍の底に流れる「全的滅亡」の調べが江藤の心の琴線に触れた。そこには、若い頃「適者生存」の「適者」たらんとして昂然と胸を張って立ち向かった江藤の姿はもうない。「治者」の論を説いて、「戦後民主主義」の欺瞞と闘った江藤の姿はない。

 昭和40年、幼少時の思い出があった大久保百人町の跡地を訪れて呆然とし、自分の戻るべき故郷はもう祖父母と母が眠る墓所にしかないと思い、拙文(2)にも引用したような、「生者の世界が切断されても死者の世界はつながっている。それが「歴史」かも知れない、と私は思った」(前掲『戦後と私』)、その死者につながる甘美な世界へ、平成の江藤は心を傾けていく。

 『南洲残影』を上梓して間もない頃、文學界平成10年6月号の『滅亡について』と題された桶谷秀昭との対談で、江藤は次のように語っている。

 

 ぼくは南洲を書いたせいなのか、いまの時代に尋問すべき相手がいるかということを考えるんですよ。かたちとしては政府があり議会があり、自衛隊へ行けば「分列行進曲」がときどき響き、国はあるように見えないこともないけれども、本当にいま日本はあるのかなあ、自分は本当に生きている人間なのかなあ、ひょっとすると幽霊ではないのかなあ、と。そんなこと二十四時間、三百六十五日思っているわけじゃないけれども、ある瞬間にふっと思うことはあるんです。あと何年か幽霊でこの世にいて、あの世に行くと生き返るのかなとか、このごろ変なことを考える。     

 自殺したいとか、この世におさらばしたいとか思っているわけでは全然ありません。いながらにして幽霊になっているものがどうやって自殺するか、こんなつらいことはないじゃないか、どうしてくれるんだ。だから、祟りとか怨みとかいうことを何とかしてくれ、と思うんですね。(『南洲随想 その他』・文藝春秋・平成10年所収)

 

 江藤淳処決1年余り前の言葉である。

 

【師弟】

 大学院を放遂された(←福田の言葉)後父親が経営する製麺会社で営業の仕事をしていた福田和也は、学生時代から取り組んでいた『奇妙な廃墟』を書き上げ上梓した(国書刊行会・平成元年)。ほとんど世間の反応がなかったのだが、この書が江藤淳の目にとまり、江藤の紹介と推薦を受けた福田は論壇デビューを果たし、一躍人気評論家となっていく。数年後に慶応大学で助教授のポストを得た(現在は教授)のも江藤の推薦によるものである。

 福田にとって江藤は大恩人である。江藤ゼミで学んだとか、江藤研究室で育てられたということではないので、狭義の師弟ではないかもしれないが、福田は江藤から厳しい叱責を受けたことも幾度かあるようで、また福田自身「江藤淳学弟」を自称しているので、事実上の師弟である。

 その福田和也江藤淳を厳しく批判した文章がある。新潮平成8年2月号掲載の『江藤淳氏と文学の悪』(『江藤淳という人』・新潮社・平成12年所収)である。

 福田によれば、江藤は人生を喪失の連続と見ているから、「獲得」を求めない。「獲得」を目的とする豊かな「戦後社会」は、江藤の喪失したものへの忠誠心から、否定されなければならない。江藤の批評に治者としての自覚はあるが、「獲得」の試みは排除され、愚劣や悪行は抑圧される。治者としての自覚は述べても、ドストエフスキィの「大審問官」のような悪が一片もない。江藤の批評に欠落しているものは「信」と「賭け」である。例えば万分の一の可能性に賭けた三島由紀夫の決起は、江藤においては「病気」としてしか理解されない。江藤に喪失の悲しみはあるが、「生存」を脅かすものに対する大きな「怒り」がない。

 福田は次のように論考を締め括る。

 

 江藤氏の批評は、「悪」を受けつけない。それは、悲しみに満ちているが、また驚く程健全で、堅実なものである。このことは、氏が対面してきた戦後の文学が、ある意味で「不健全」であったことを逆に示すものだ。

 だがまた、戦後文学には、川端康成三島由紀夫といった少数の例外を除けば、悪も欠如していた。その点において、戦後もまた善良な時代と云えるかもしれない。それは「喪失」の時代であったが、また「平和」と「繁栄」の時代でもあった。                      

 だが、善良きわまる「生存」において、人は「大惡人」(下記引用者注)として笑い得るのだろうか。私にとって、今日批評的であるという事は、そのように人が笑い得るという事を「信」じるという事に他ならない。(同書)                               

 (引用者注)虚子の句「初空や大惡人虚子の頭上に」による。

 

 これは福田和也が批評家として江藤淳から自立するために、相当の覚悟を決め、渾身の力をこめて書いた文章である。江藤への深い尊敬と理解があるからこその、核心をついた批判が展開されている。

 この新潮2月号が発売される前、編集長が刷出しを持参して江藤邸に挨拶に出向いた。江藤はそれを読んで、福田に手紙をしたためた。その私信を、福田は江藤没後に遺族の了承を得て公開している(文學界平成11年9月号、前掲『江藤淳という人』所収)。

 端正な文章で綴られた丁寧な手紙である。「あなたが批評家としてここまで大きく成長されたことが嬉しくてなりません。」という一文が半ばに置かれている。行間から伝わってくる江藤の気持ちが読む者の心を打つ。便箋にすれば3枚ぐらいだろうか、最後に「虚子に負けぬ位長生きして、「大悪人」になってみたいものです」と締め括られている。

 2か月後、江藤と福田は別の雑誌の対談で会うのだが、江藤は福田を完全に対等に遇した。がっぷり組んだ議論をし、福田の感激は頂点に達する。

 

【轟く雷鳴】

 江藤淳の絶望は平成の日本への絶望でもあった、などということを安直に言うと、浅薄なプロパガンダだとの誹りを免れないだろう。

 江藤の最晩年の約1年間は悲痛である。脳腫瘍で倒れた夫人の看病と葬送、そして自らも重病を負いながら喪主としての務めを果たし、すべてが終わってから一時は危篤状態に陥る。回復後も相次ぐ病魔に襲われ、孤独で不如意な日々が続く。これらは江藤の私ごとである。だが江藤の出発点でもまた、私ごとの喪失の悲しみと公への悲しみは重なっていた。

 平成の日本への絶望感もあったろう。まだ夫人が元気で私生活に不幸の影がさす前から、既に江藤の心は「全的滅亡」の調べに惹かれていた。

 江藤の「私」と「公」はいつも渾然一体である。

 

 拙文で先に述べてきたような「液状化し腐臭を放っている言語空間」は、江藤の死を「無残に無残に消費」(福田和也の言葉)した。

 福田は怒る。「週刊誌のいくつか、というより殆どは、「殉愛」「看取り燃えつき」などという下卑た言葉を用いて、氏と夫人の関係を現代芸能報道の水準に引き下ろしてみせ、大衆という言葉すら勿体ないような愚民たちの理解の枠に入れた。その事を強く嘆いていたところ、友人が云うには、実際にテレヴィの芸能番組に取り上げられて、入院先の病院まで取材されていたという事であった。」(『批評の煉獄』・新潮平成11年9月号、前掲『江藤淳という人』所収)さらに福田は、追悼文が溢れかえった文壇論壇の精神の弛緩した論者たちの惨状を嘆き、最後に、江藤と付き合いがあった保守系全国紙が社説などで江藤の死をプロパガンダに利用し、「氏の思惟を最低の次元に引き下ろす事を喪の敬虔さもまったくなく敢行」(同書)したことに憤怒を炸裂させている。

 私たちはそのような時代を生きているのだ。

 

 平成11年7月21日の夕、梅雨明け前の鎌倉を襲った集中豪雨とともに激しい雷鳴が轟くなか、江藤淳は端正な筆跡で遺書をしたためた。

 翌22日早朝、私は枕元のラジオで江藤淳自決のニュースを聞いた。衝撃が走った。

 遺書はもちろん親交のあった人たちに向けて書かれたものだが、最後の一文、「乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」は一読者の私の心にも届いている。(了)

 

 

【余滴 ―小谷野敦江藤淳大江健三郎』について】

 小谷野氏の『江藤淳大江健三郎』は、若い頃「遠く仰いできた批評家」だった江藤淳を、「そんなに偉かったのかという疑念から」低く評価しなおすにいたる著者の考察過程が書かれている。

 私はおもしろく読んだが、江藤ファンはこの書に反感を持つかもしれない。あるいは、江藤淳をほとんど読んだことがない者がこの書を読むと、「エトージュンて、何かヤーな感じぃ」と思う人も出てくるかもしれない(いるだろう)。

 江藤淳にかぎらず何事につけ、受け止め方は人それぞれのものである。その受け止め方への賛否は別にして、敬意を払うに価すると思えば、真摯に耳を傾ければいいのである。人の意見を鵜呑みにして「何かヤーな感じぃ」としてしまうのもあまり賢明な態度とは思えない。

 この書は江藤淳大江健三郎それぞれの詳細な評伝であると同時に、二人の確執をも描き出した労作である。それだけでも読むに価するが、さらにこの書は小谷野氏の「私小説」として読むことができるので、そこがおもしろい。小谷野氏の江藤淳の描き方には、ほとんど悪意を感じる部分もある。そういうところは、私は江藤淳をというよりも、小谷野敦を読んでいるのである。

 拙文を書き始めたとき、「この書は小谷野敦私小説である」と、どこかで書くつもりだったのだが、書いている途中で日経新聞の書評(4月12日)に先を越されてしまった。「俺が先だ」と叫んでも、それを客観的に証すすべはないので、本文中ではなく、ここで二番煎じを供することにした。ただし私は日経のその書評の見出しをチラッと見ただけで、本文は1行も読んでいない。このPCを閉じてからゆっくり読むつもりである。

 

 拙文を書いている途中で、江藤の文学論を含めて書き進める誘惑にかられた場面が何度かあった。江藤の政治エセーと文学論は不可分のものである。だがその誘惑にかられて文章をふくらませていくと、全体があまりにも長くなりすぎるので、自制した。心残りではあるが、いずれまた気が向いたら別の機会に、ということにする。気が向くことがあるかどうかは、今は皆目分からない。